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仮想現実に向かって声を嗄らすゲーマー 沖縄基地報道‐米メディアを動かそう・思考停止からの脱却を

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 沖縄は今なお「忘れられた島」なのか。垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの普天間配備をめぐる一連の政府対応に接し、沖縄の受難の歴史を想起した人も多いだろう。

 戦後間もない時期に沖縄を訪れ、「忘れられた島」と表現したのは米タイム誌のフランク・ギブニー記者だ。1949年の同誌で記者は、質の低い米軍兵士による凶悪犯罪が横行し、「絶望的貧困」に陥った沖縄住民の人権を蹂躙している実態を告発。占領米軍を痛烈に批判した。

 日本メディアの戦後の沖縄報道は、朝日新聞が55年に掲載した特集記事が発端だ。軍用地問題や人民党弾圧など軍政下の実態を、日本自由人権協会の調査結果を中心に報道した。3日後、米極東軍司令部は間違った情報、偏見に基づくものだとして全面的な反論を発表。国内外の25人の記者団を沖縄に招待し取材させた。が、結果は「朝日報道」を裏付ける報道となった。ちなみに同報道は、沖縄在住の米国人宣教師が54年に米本国のクリスチャン・センチュリー紙に寄せた軍政批判の一文が端緒とされる。

 さて、本土復帰から40年を経た今はどうか。沖縄の民意を封殺しているのは、対米従属から抜け出す意思のない日本政府である。大手メディアのオスプレイ配備や普天間問題に対する受け止めも「沖縄の問題」という域を超えない扱いが目立つ。

 そこで提案したい。もう一方の当事者である米国の記者を沖縄に招待し、植民地的状態に置かれた沖縄を徹底取材してもらうのはどうだろう。

 米紙ニューヨーク・タイムズは先月、「沖縄のオスプレイ」と題する社説を掲載。米軍基地の過重負担に苦しむ県民にとって、配備は「傷口に塩を塗り込むもの」と論じ、負担軽減は同機の県外配備から始まると唱えた。自国の大手メディアよりも、米国の有力紙の方が沖縄の現実を鋭く捉えている、と受け止めた県民も少なくないだろう。

 県内ではゲート前抗議など非暴力的手段による抵抗が続く。普天間の全主要ゲートを一時封鎖に追い込む事態も起きた。こうした中、日米同盟を積極肯定する仲井真弘多知事がなぜオスプレイ配備に反対するのか。沖縄への過度な基地の集中が日米の安全保障体制の脆弱化につながっていないか。そうした観点から米メディアにも「沖縄」を検証する意義はあるだろう。沖縄社会に多大な影響を与え続ける基地問題を、米国内でも真剣に議論すべきではないか。

 先月には県内で、マスコミ倫理懇談会の全国大会が開かれた。普天間報道をめぐる議論では、全国メディアと沖縄メディアの温度差が浮き彫りになった。沖縄と米メディアの記者が、同様の議論を深める機会があってもいい。

 県は近くワシントンで県主催のシンポジウムを開く。米国に基地問題を訴える政策の一環として、米主要メディアの東京特派員の沖縄招致を検討してはどうか。日米政府経由ではない、沖縄の生の声を伝える価値はあるはずだ。

 15日からの新聞週間を機に「沖縄基地報道」を問う。

 呪縛が解けない。「アメリカの虎の尾を踏んではならない」という目に見えない呪縛が、民主党政権をがんじがらめにしている。

 普天間問題をめぐる民主党政権の方針を180度転換したのは、菅直人元首相だ。

 2010年6月の所信表明演説で菅氏は、学生時代に永井陽之助氏の『平和の代償』を読んだエピソードを披露し、「現実主義を基調とした外交を推進すべき」だと宣言した。市民派からリアリストへの突然の変身は、党内論議を積み上げた結果ではない。鳩山由紀夫元首相の失敗に懲りたからだ。

 永井氏は冷戦時代に活躍した国際政治学者である。現実主義に立脚した議論を展開したことで知られているが、『平和の代償』の中で永井氏は、沖縄の過重負担に触れて次のように指摘している。1966年のことだ。

「いかに詭弁を弄しようとも、現在われわれが日々享受している“平和”なるものが(中略)、防共最前線に立つ南ベトナム、韓国、台湾、沖縄など、多くの地域住民の巨大な軍事的負担と、犠牲の上にきずかれているという、きびしい反省がなければならない」

 永井氏が指摘した「巨大な軍事的負担と犠牲」は、46年たった今も解消されていない。

 思考停止に陥っているのは民主党政権だけだろうか。一部本土メディアもまた、「日米同盟」という言葉にがんじがらめになって、基地負担をめぐる社会的不公正に鈍感になってはいないだろうか。

 国会から日米安保の議論が消滅して久しい。大きな変化が起きているにもかかわらず、「日米同盟基軸」という言葉が独り歩きし、批判や疑問を許さない雰囲気さえできてしまった。

 日米両政府は2005年10月、「日米同盟・未来のための変革と再編」という文書に署名した。日米同盟の対象範囲が極東から世界に拡大され、安保条約の実質的改定と言われながら、国会での議論は低調だった。

 野田佳彦首相とオバマ大統領の日米共同声明で、アジア・太平洋重視の新戦略が打ち出された。マリアナ諸島に新たな訓練場を設け、日米が共同訓練を行う。そんな計画が表面化したにもかかわらず、肝心の民主党の中でどのような議論が行われたのか、その形跡はない。

 官僚主導、米軍・自衛隊主導でとんとん拍子に話が進み、国会もマスコミも十分なチェックができていないのが現状だ。

 政治的リアリストを自認した永井氏は、軍事力を過大に評価する軍事リアリストとは距離を置き、過剰を戒めた。今、ジャーナリズムに求められているのは、日中の対立を避けるための枠組みづくりに寄与することであり、権力政治を相対化することである。

 普天間返還やオスプレイ配備の問題についても、沖縄の負担軽減と国民の安全・安心を二者択一の問題としてとらえるべきではない。不公正是正が結果として日米関係の基盤を固める−そのような道を模索すべきだ。

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 40年前の占領後の人権蹂躙や軍政下の人権弾圧を取り出し、それが今では『沖縄の民意を封殺しているのは、対米従属から抜け出す意思のない日本政府である。大手メディアのオスプレイ配備や普天間問題に対する受け止めも「沖縄の問題」という域を超えない扱いが目立つ』としている。

 民主制における民意は投票を契機としている。この投票妨害を日本政府が行ったことはない。しかし、沖縄タイムス社のいう民意とは、民主性における民意のことではなく、孟子的民主主義における民意、つまり天意は人心に現れるの方の民意のことだから、それに限って言えば、沖縄の人心=民の声と麗々しく新聞を飾っている言葉で示された事象が実現していない現象を捉えて、『日本政府は、沖縄の人心を封殺している』と捉えてしまうのは当然だろう。


 格言に『傷口に塩を塗る』というのがある。その意味は『悪いことの上に更に悪いことが起こって、もっと辛くなることの喩えだが、どちらかというと、相手が弱っているのを確認した上で、故意に悪気を持って追い討ちをかける』ことをいう。この格言を用いて米紙ニューヨーク・タイムズは社説でオスプレイ配備を批判している。『米軍基地の過重負担に苦しむ県民にとって、配備は「傷口に塩を塗り込むもの」と論じ、負担軽減は同機の県外配備から始まる』とした。

 ところで、米軍基地の「過重負担」とはよく聞く言葉だが、何が、どのように負担になっているかという具体的なことはあまり聞かない。たとえば私は普天間飛行場に隣接する野嵩一区に住んでいるが「何がどのように負担になっているのか、わからない状態」である。ある人は騒音を負担にする。ある人は土地の活用ができないことを負担だと言う。人によって負担の中身は異なる。ましてや基地周辺以外の人に何らかの負担があるはずがない。したがって、沖縄いにおける基地負担とした場合、実際に何らかの負担にある人は50%以下だといえる。また、オスプレイに対しては、50年代までの原子力アレルギーと同じで、オスプレイ・アレルギーがあるに過ぎない。そうした事例に対して『傷口に塩を塗る』という格言を用いることはどうかと思う。

 ちなみに、傷口に塩を塗りこめることは殺菌・消毒のひとつとして知られている。しかし、これは気をつけた方がいい。手術のとき生理食塩水を使うが、それは殺菌や消毒のためではなく、止血のためである。この生理食塩水程度を傷口に塗りこめると、逆に細菌が繁殖するのにちょうど良い環境を提供してしまいます。傷口に塗りこめる塩は、非常に濃い塩水に限ります。海で怪我をした時、傷口を海水で洗うのと同じ理屈です。原理的には、塩を刷り込んだ場合、しみ出した体液が非常に濃い食塩水となり、細菌が死ぬ、もしくは繁殖できなくなります。ただし、一回刷り込んだりぬったりしただけでは、すぐにしみ出した体液で薄まってしまい、逆に細菌が増える好条件となります。この方法は傷口に強い刺激を与え、炎症を酷くする作用もありますので、他に何もない時で緊急を要する時限定版といえます。

 また、塩は、古来から信仰とも結びついています。神道や仏教等では、塩で穢れを清めますし、神仙思想では不老長寿の薬的存在です。昔の人は塩を歯磨きに使いました。高濃度の塩で味覚が刺激されると、唾液が多量に分泌されるようになります。唾液中には、血清成分のアルブミン、グロブリン、消炎酵素のりゾチーム等、口腔内の環境を調節、殺菌消毒する成分が存在しますので、口腔内が比較的清潔になります。

 暴力とは「他者の意思とは無関係に、こちらの意思を一方的に相手に押し付ける物理的破壊力」と定義づけてみます。この定義に従えば『県内ではゲート前抗議など非暴力的手段による抵抗が続く。普天間の全主要ゲートを一時封鎖に追い込む事態も起きた。』ということは嘘ではないでしょう。主要ゲートの一時閉鎖は「ゲート前に車を放置した」ことによるものですから、「米軍の意思とは無関係に、反対派の意思を一方的に米軍に押し付ける物理的行使」であって、破壊は行っていませんから「暴力行為寸前の状態」であり「暴力行為」ではないでしょう。凧揚げや風船揚げも似たものです。


『こうした中、日米同盟を積極肯定する仲井真弘多知事がなぜオスプレイ配備に反対するのか。沖縄への過度な基地の集中が日米の安全保障体制の脆弱化につながっていないか。そうした観点から米メディアにも「沖縄」を検証する意義はあるだろう。沖縄社会に多大な影響を与え続ける基地問題を、米国内でも真剣に議論すべきではないか。先月には県内で、マスコミ倫理懇談会の全国大会が開かれた。普天間報道をめぐる議論では、全国メディアと沖縄メディアの温度差が浮き彫りになった。沖縄と米メディアの記者が、同様の議論を深める機会があってもいい。県は近くワシントンで県主催のシンポジウムを開く。米国に基地問題を訴える政策の一環として、米主要メディアの東京特派員の沖縄招致を検討してはどうか。日米政府経由ではない、沖縄の生の声を伝える価値はあるはずだ。』

 天意人心論に基づく沖縄の人心=民の声=生の声を、ダイレクトにアメリカ人に伝えることに反対する人はいないだろう。ただ、その生の声なる見方や考え方に異議を唱える人はいるはずで、その声も、またダイレクトにアメリカ人に伝えることを妨害する人はいないのだと信じたい。


 日本政府はオスプレイ配備について中国の脅威を強調するが、アメリカは必ずしもそうではない。その政府に対してなら、永井氏の論説を引用して批判することはできるかも知れないが、軍事力やオスプレイの配備に対する批判の根拠とはならないだろう。その限りにおいて、対政府ではあるが、、対アメリカや対日米同盟、対軍事力ではない論説は、まるで仮想現実に向かって一生懸命に声を嗄らしているゲーマーのようである。







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