昭和23年『思い川』が文芸雑誌「人間」に連載された、宇野浩二晩年の代表作です。このころ社会はまだ敗戦から立ち直れず、人心もすっかり荒廃し切ったそんな時代にあって、これはまあ、人間の真心をひたすら見つめ続けた小説でしたから、あるいは読んだ人びとにとって、大いなるカタルシス(心の浄化作用)になったかもしれません。
なにしろ主人公の小説家と芸妓の、しかも肉体関係はいっさい伴わない30年にも及ぶプラトニックな関係がこれでもかこれでもかと愚直に描かれているのですから。じつはこれ、筆者自身の恋愛体験をそのまま素材にしています。その意味では典型的な「私小説」ということになりそうですが、でも、はたしてそう言い切ってしまっていいものか。実際に読んでいただければ、そのあたりの理由もうなずけるはずです。
まず文章がへんに緩んでいます。
《大正十二年は、九月一日に、関東地方に、稀な大地震のあった年である。その大正十二年の一月の中頃のある晩、牧新市は、その十二年ほど前から急に妙にしたしくなった仲木直吉に誘われて連れて行かれたことのある、茶屋に行った。その茶屋は、仲木がそのころ住んでいた家から、あまり遠くないところにあった。その晩、仲木は、その茶屋の座敷に坐ると、半分ひとり言のように、「今日は、前に一ぺん呼んだことがあるんだが、三重次というのをかけてみようか、」と云った。》
小説家牧がこの物語のヒロイン三重次と出会う冒頭の一節ですが、やたら読点だらけの、小学生の綴り方のようにもとれそうなたどたどしい文体。ところが読み進むうち、それがなんともいえない味になってくるから不思議です。それは会話文にも端的に表れています。
《やがて、三重次は、思いあまったような口調で、しみじみと牧の顔をのぞくようにして、「…こんなに、したしい、『おつきあい』をするようになってから、…もうかれこれ一年半、もっとになります。…それなのに、…先生は、…あたしを…お試しになっているのですか…」とたてつづけに云った。そうして、その声がしだいに潤(うる)んできた。》
一方で奥さんがいるからではありませんが、プラトニックな関係を崩さない牧に三重次が感情を抑え切れずたたみかけるシーン。じらされる三重次の切ない呼吸が伝わってきませんか。このセリフにあるような独特のリズムが地の文にも乗り移って、作品全体が冗舌なしゃべり言葉になって進んでいくのが、この小説の大きな特徴です。
この点、精神の病に伏せることが多かったという宇野の枕元で、当時まだ一介の編集者だった水上勉が、師の言葉を逐一聞き漏らすまいと口述筆記で手伝ったこととも関係しているのかもしれません。いずれにせよ、「私」がしだいに浄化され、「私小説」の枠からも抜け出して一種のファンタジーに昇華しているのもこの文体があるからで、「あるいは 夢みるやうな恋」という副題がじつに言い得て妙です。
ただ、作者を取り巻く現実は決してそんな甘やかなものでなかったことは、大正、昭和にかけて多くの文人に愛され、宇野浩二自身も定宿にした東京・本郷の「菊富士ホテル」について瀬戸内寂聴が書いた評伝『鬼の栖』のこんな一節からも分かります。
《その当時の宇野浩二が、妻と恋人の間にはさまれ、決して楽しいばかりではなかったことは、そのことが原因の一部になって、まもなく発狂していった事実が示している。》
タイトルの「鬼の栖」とは、宇野浩二が『思い川』のなかで「小説の鬼」にとりつかれた自分を語る場面から取られています。重厚な自己体験でさえこんな水墨画のように淡い物語にしてしまうのも、文字通り「小説の鬼」だったからこそなせた技といえるでしょう。
【プロフィル】宇野浩二
うの・こうじ 1891〜1961年。福岡市で生まれ、幼少時に移った大阪で育った。早稲田大学英文科予科に入学後、中退。著書は作家の近松秋江をモデルにした『蔵の中』をはじめ、『子を貸し屋』『枯木のある風景』『器用貧乏』など多数。「小説の鬼」と称され、芥川賞の選考委員も務めた。弟子に作家の水上勉がいる。