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池田小事件11年における摩訶不思議な精神構造ー自然現象と科学的なるものの同居

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 池田小事件11年の追悼の集いで次のような発言があった。

佐々木靖大教大付属池田小校長
 この学校は命の大切さを訴える発信源でなければならない。世界中の学校と手を携え、学校が安全で安心できる場所であるよう、これからも努力を続けます。

 人は何より自分のことに関心がある。事故や事件ともなれば、その当事者など、まるで本人は自覚してはいないのかも知れないが、第三者から見れば、程度の差こそあれ、まるで悲劇の主人公気取りである。佐々木校長の発言にもそういう感情は見受けられるのではないだろうか。

 事件は事件としてすでに処理されている。にもかかわらず『この学校は命の大切さを訴える発信源でなければならない』とする。自惚れもいいところではないか。そうでないというのでればぐ「命の大切さ」を訴えるために具体的にはどのような行動を起こしているのか。何もないはずである。また『世界中の学校と手を携え、学校が安全で安心できる場所であるよう、これからも努力を続けます』というが、それもまた事実なき妄想でしかない。

 当時、大教大付属池田小から550メートルしか離れていない市立中3年であり、8人もの幼い命が奪われた大事件の現場近くの学校に通う者として、言いようのない恐ろしさと戸惑いを覚えた経験を持つ者は、2001年6月8日。街全体が震撼したあの日のことを忘れたことはないという。

 当たり前である。事件や事故の当事者は、そのことを決して忘れない。だからこそトラウマという病気があり、その記憶をが判断力の力を借りて治療できないのである。さて、人は自らが体験したことを忘れることはないという事実を、さも「忘れることはできるのだが、しかし忘れてはいけない」などとする虚構を売り物にする者の体験談を続けよう。

『あの日、事件の一報は友人に届いた家族からのメールによってもたらされました。ざわつく同級生の中には、付属池田小に通う弟や妹が事件に巻き込まれていないかと不安を押し殺す級友も。犯人の身柄が確保されていた昼過ぎ、混乱した担任から「複数犯で逃走中の可能性あり」との情報が伝えられ、騒然となったのは言うまでもありません。夕刻、足を運んだ現場やその周囲で目に飛び込んできたのは、涙を流す保護者らの姿、そして現場周辺などの混乱を警備する警察官であふれた街の様子でした。平穏なベッドタウンの風景は、激変してしまいました。私にとって大事件や事故、災害はそれまで、別世界の出来事でした。しかし、身近で起きた悲劇的な事件に、いくつかの考えを抱かずにはいられませんでした。なぜ事件は起きたのか。防ぐ手だてはなかったのか。そして、社会は遺族に何ができるのか――。これらの疑問こそが、私が記者を目指した原点です。今も、どの問いにも明確に答えることはできません。ただ、だからこそ、1人でも多くの人と一緒に考えたい。そして、そのために、せめて必要な材料となる情報を示したい。それが今回、調査を行った理由でした。おそらく、県内の教育関係者の中には事件前の私と同じく、「凶悪事件など別世界の出来事だ」との考えを持つ方もおられたはずです。でも、これだけは伝えたい。事件がいつ、どこで起きるかなんて誰も分からないと。8日の付属池田小には、多くの人が献花に訪れたそうです。ただ、風化は確実に進んでいます。悲劇から目を背けず、何を教訓としてくみ取るのか。記者となった今、自分にもできることがあると信じ、これからも自らの原点に向き合い続けたいと思っています。』

 事件や事故の当事者は忘れることはできないが、それをニュースなどで知った第三者は、あっさり忘れる、努力しなくても忘れる。人が、自らが体験しなかったことを覚えているということはない。もっとも、知識として記憶していることはありうるだろう。そして、忘れるということも人の記憶の持つ重要かつ不可欠な機能である。体験者や体験継承者なる連中は、その機能を否定する人が多いようである。

 なぜ事件は起きたのかとか、防ぐ手だてはなかったのかとは、事件を事件としてのみ処理すれば、もしかすると解答は得られるのかも知れない。また、社会は遺族に何ができるのかは、言い換えれば保障問題だろうが、日本社会で被害者賠償に重きを置くことをできない。日本は自然生成説の社会だから、社会を人工的組織として捉えない。社会が組織であるなら、その組織内における不手際は、その組織を運営する者の責任となり、その責任に基づいて保障が行われる。しかし日本は社会は組織ではない。自然と生物との関係である。人という生物が自然という社会において何らかの不手際が生じた場合、責任を負える者など誰もいない。ただ。建前上、日本は欧米の組織や法概念を採用しているか、その運用の範囲で賠償が行われる。それ以上のものではない。

 風化という言葉は自然現象を指す言葉である。一方で客観的ないわゆる科学的解決が必要な事案(なぜ事件は起きたのか。防ぐ手だてはなかったのか。そして、社会は遺族に何ができるのか)を求めておきながら、一方で、その事案を自然現象のように扱う。こういた摩訶不思議な精神構造の位置づけも重要な時代になってきたのではないだろうか。






















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