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ある事実・現象が全くないことを証明させてはならないー悪魔の証明(probatio diabolica)

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 悪魔の証明(ラテン語:probatio diabolica)とは、「ある事実・現象が全くないことを証明させてはならない」という論争上の原則の一つ。

【概要と使い方】

 一般的に、「ないこと」を証明するより「あること」を証明する方が簡単な場合が多い。

 例えば「全ての屋外が写っている動画に1本は幽霊が映っているものがある」をめぐって「ある派」と「ない派」が対立した場合を考える。ここで「ない派」がそれを立証するには、現在777万本以上存在する動画の中から屋外を映している動画全てを探して閲覧し、その全てに幽霊が登場しないことを確認する必要がある。対して、「ある派」が立証するには屋外で撮影された心霊フィルムや怪奇映像などの動画から一本探して示せばよい。

 このように「存在する説」と「存在しない説」が対立した時、それらには立証する際の難易度に大きな差があることが多い。そこで、こういった論争と証明について、その困難さなどを考慮すべきという原則を「悪魔の証明」と呼ぶ。「ない」派が立証できないからといって、「ある」派が常に正しいとは限らないのだ。

 要するに「無い(いない)ことを証明しろ!」は無茶振りである、というわけである。

【由来】

「悪魔の証明」における悪魔とは、比喩表現の「悪魔(diabolica)」の事である。その語源は古代ローマにあり、当時の法律において「所有権」という概念が非常にあいまいだったことに端を発する。

 古代ローマでは、所有権という概念に契約証などが使われることは非常に稀であった。この為、ある人物Aが受け取った物品が盗品であるかどうか疑わしい場合、それ以前にそれを所有しAに譲り渡した人物Bの証言が必要になる。しかしその人物Bの所有権についても疑わしい場合、さらにBに譲り渡した人物Cの証言が必要になり、結果元の所有者と取得権利を辿ることは「悪魔でないと」難しいとされた。これが大元である。

 これはある種の積極的証明の困難性を示すものであり、現在ネットなどで通用している用法とは意味が異なっている。また、「証明は肯定する者にあり、否定する者にはない。」(Affirmanti incumbit probatio, non neganti.)という古くからの原則に基づく説は存在するが、現在では考慮すべき点の一つに過ぎないと言う結論が出ており、現に訴訟法では消極的事実を主張する側にも立証責任がある。法学者が用いる例では、著しく困難な証明すべてを悪魔の証明と呼ぶようである(参照リンク)。

【宗教的な説明】

 古来より、多くの悪事の原因や災禍の原因を「悪魔」に転嫁することが日常的にあった特に、その地域に根付いている宗教によっては、信仰する神に敵対する存在を挙げることが多く、特に二元論を含む教義では「(悪魔のような存在は)いると信じるのが当たり前」であった。

 例えば、ある教会の鐘がひとりでに落ちて、偶然下にいた司祭の飼い犬ジョン(3さい)が圧死したとする。もしこれが司祭によって「悪魔の仕業だ」とされた場合に、「悪魔なんていない」と主張する者がいれば、他の信徒から(悪魔が鐘を落としたという説について)「悪魔の仕業ではない、つまり悪魔が居ないことを証明しろ」と言われることになる。

 宗教議論に限らず、何かが「存在する」と「存在しない」の意見が対立した場合、「存在する」と主張する側が証明を行い、証明出来なかった場合は「存在しない」と暫定的に決定するのが常識となっている。何故なら、「存在する」事の証明は1つだけ実物や現象を見つけてくれば証明が成り立つが、「存在しない」事の証明は考え得る全ての場合を残らず検証し、全てにおいて存在しない事を証明しなければならない。
※これは誤りである(あるいは誤りが常識になってしまっている)。注意点の項参照。

 そういう訳で、本来なら「存在する」と主張する側がするべきである証明を「存在しない」と主張する側にやらせようとすること、およびその証明の事を「悪魔の証明」と言う。
※以上の説明については由来の項の参照リンクにあるように、「悪魔の証明」と「消極的事実の証明」は最近になって結び付けられたものという指摘から、後付けの考えである可能性がある。

 普通ではありえないようなことを起こすいたずら者を仮定するときに「悪魔」という言葉を用いる事がある。例えば物理学・物理化学におけるラプラスの悪魔、マクスウェルの悪魔は、それぞれありえないような能力を持った想像上の存在として思考実験に用いられる。これらの「悪魔」は「ある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつそれらのデータを解析できる」などの超越的な能力を与えられている。「悪魔の証明」というのはこのような超越的な能力のある悪魔でないと不可能という意味であると思われるので、この辺りがこの語の現在の用法の定着に一役買った可能性も考えられる。

【注意点】

 論理学的には消極的証明と積極的証明の困難性に、一般化できるような違いは無い。これは論理学と直結している数学において、消極的証明の方が容易な場合も多いことからもわかる。このため、この「原則」が常に通用するものではなく、ケースバイケースで適用できるか否か判断する必要がある。

 例えば、ニホンオオカミの生き残りがいるかが問題になった場合、実際にニホンオオカミを見つけてくれば話は早い。一方、いないことの証明は少なくとも日本中の山林をしらみつぶしにしなければならないので不可能に近い。ちなみに絶滅種の指定は、50年間発見されない事を以ってなされる。

 一方、「ゲームのプレイ動画でルール違反(改造ツールの使用など)があった」といった主張の場合、不正・ルール違反というものは実物を取ってきて見せることができない抽象概念であるため、存在証明の方が簡単とは言い切れない。実際には、まあ不正はないだろうという状況証拠・安心材料は見ているうちに溜まってくるものであるが。

 また、論理的には「存在する証拠がないから存在しない」というのは「存在しない証拠がないから存在する」というのと同種の誤りあるいは詭弁である。証拠があればそれを元に何らかの結論が出せるが、証拠が無いなら確かな事は何も言えないと考えるのが正しい。ただし、現在広く認められている説が既にあるなら、それを覆しそうな証拠が検討の結果棄却された場合、「現状では新しいことは何も言えない」、つまりこれまでの説を継続して支持すべきということになる。


悪魔の証明
 悪魔の証明とは、所有権帰属の証明の困難性を比喩的に表現した言葉である。この表現は、ラテン語の probatio diabolica に由来しており、古くは中世ヨーロッパにおいて、土地の所有権の帰属を証明する際に、当該所有権の由来を遡って逐一立証することは不可能であることを指して用いられた。日本の民法学においても物権法の分野ではそのような意味で現在でも使われている。なお、それが転用され、民事訴訟法学者の兼子一らによって、上記のような消極的事実の証明の困難性を指して比喩的に用いられる例として使われたこともある。


?片山容疑者の発言
 佐藤弁護士によれば、ウイルスが作成されたプログラム言語C#は使えないことを説明しても、検察官は「そんなことは(犯人でない)根拠にはならない。こっそり勉強しているかもしれない」と聞き入れず、片山氏が「それは悪魔の証明ですね」と言い返す場面もあった。

【議論の一般的なルールと悪魔の証明】

「起きないこと」や「存在しないこと」を証明することは困難です。なぜなら、「ある(存在する、起きる)」ことを証明するためには一例を挙げれば良いだけなのですが、「ない(存在しない、起きない)」ことを証明するためには、世の中の森羅万象を調べ尽くさなければならず、それは不可能に近いからです。

 ゆえに、議論の一般的ルールとして、「ある」と主張した者が、それを先に証明しなければならないという暗黙の了解があります。
「あなたが先に『ない』ことを証明せよ、さもなくば『ある』のだ」と主張する詭弁を「悪魔の証明」と呼びます。

【具体的な例】

「霊が存在しないという証拠は無い。ゆえに、霊は存在する」

「宇宙人が存在しないという証拠は無い。ゆえに、宇宙人は存在する」

「超能力が存在しないという証拠は無い。ゆえに、超能力は存在する」

「神が存在しないという証拠は無い。ゆえに、神は存在する」

「サンタクロースが存在しないという証拠は無い。ゆえに、サンタクロースは存在する」

「前世が存在しないという証拠は無い。ゆえに、前世は存在する」

「占いが当たらないという証拠は無い。ゆえに、占いは当たる」

「空飛ぶ犬が存在しないという証拠は無い。ゆえに、空飛ぶ犬は存在する」

 上記の例に関して、確実に言えることは、『Aが存在しないという証拠は無い。ゆえに、Aは存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。』ということだけです。

【問題】 次の結論は正しいですか? その理由は?
 月の裏側には、ウサギが存在する。なぜなら月の裏側にウサギはいないという証拠がないからだ。

答え: これは引っ掛け問題です。『結論は誤り』と答えた人は不正解。確実に言えることは、ただ『月の裏側にウサギは存在するかもしれないし、しないかもしれない。』だけです。もちろん、月の裏側にウサギがいないという証拠がなくても、それをもってして月の裏側にウサギが存在することを証明したことにはなりません。つまり、正しくは『結論が誤り』なのではなくて、『論理が誤り』なのです。

【いわゆる「言いがかり」の例】
A. お前、悪魔だな?
B. 違いますよ。

A. 嘘付け。じゃあ「悪魔じゃないと言う証拠」を見せてみろ!
B. えぇ……ッ!

A. 悪魔ではないと言う証拠が無いんだから、お前は悪魔に決定だッ!!
B. えぇ……ッ!!

【正しいの証明::証明責任の例】
A. お前、悪魔だな?
B. 違いますよ。私が悪魔だと言う証拠があるんですか?

A. う…!?いや、証拠は無い…ッ!
B. なら私は悪魔じゃありませんよね?

A. うん…。疑ってゴメン…。
B. いいえ、分ってくれてありがとうございます。

「起きないこと」や「存在しないこと」を証明することは困難です。なぜなら、「ある(存在する、起きる)」ことを証明するためには一例を挙げれば良いだけなのですが、「ない(存在しない、起きない)」ことを証明するためには、世の中の森羅万象を調べ尽くさなければならず、それは不可能に近いからです。

 ゆえに、議論の一般的ルールとして、「ある」と主張した者が、それを先に証明しなければならないという暗黙の了解があります。「あなたが先に『ない』ことを証明せよ、さもなくば『ある』のだ」と主張する詭弁を「悪魔の証明」と呼びます。


【PC遠隔操作事件】警察も検察も、これで大丈夫なのか…
江川紹子 ジャーナリスト

「もう、絶対許しません」ーー日航機の爆破予告などをしたとしてハイジャック防止法などの疑いで再逮捕された片山祐輔氏の弁護人である佐藤博史弁護士の怒りが炸裂した。片山氏は5日、東京地検に身柄を送られたが、そこで検事が弁解録取書の作成にかこつけて脅迫的な取り調べを行ったり、事実と異なる記載をしようとした、という。これまで、検察側の対応には期待を寄せていた佐藤弁護士だが、「こちらは、録音・録画をすれば黙秘せずに話すと言っているのに、こういうことをするとは…」と怒り心頭。今後は検察とも全面対決の方針で、勾留質問などで裁判所に行く時以外は留置場から出ず、一切の取り調べに応じないことになりそうだ。

 弁解録取書とは、逮捕された被疑者に対し、容疑についての言い分を初めに聞いて作成される文書。片山氏は、これは取り調べとは異なる手続きとして、警察でも作成に応じている。

 佐藤弁護士によれば、検察官に対しては「今日の機会を利用して、録画したうえで思う存分取り調べをして下さい」と要望してきたが、検察側は録音・録画を拒否。片山氏が、「録音・録画がされないなら、弁解録取の手続きには応じるが、取り調べは拒否する」と伝えると、検察官は弁録は取らず、取り調べを始めた、という。

 検察官は対決姿勢で臨み、「検察は、君を起訴できるし、有罪にできる」と断定。録音・録画について「(検察に)そういう義務はない。法律に違反しているのは君の方だ」などと述べ、「無実だと言うなら、録画などされなくても堂々と説明しろ」と迫った、という。こうした取り調べが午前10時から正午まで続き、弁録は作成されなかった。午後には、取り調べを拒否する旨の意思表示をしたが、「まだ弁録ができていないから」と言われてやむなく取調室に赴き、午後1時半から2時50分まで取り調べと弁録作成が行われた、という。

 佐藤弁護士によれば、ウイルスが作成されたプログラム言語C#は使えないことを説明しても、検察官は「そんなことは(犯人でない)根拠にはならない。こっそり勉強しているかもしれない」と聞き入れず、片山氏が「それは悪魔の証明ですね」と言い返す場面もあった。正月に江ノ島に行った時の服装や当時持っていたリュックの行方を聞かれ、「服は古着やさんに売った。リュックはイタリア旅行に行った時に壊れたので取り替えた」と説明すると、証拠隠滅を図ったかのような記載が弁録の中に盛り込まれそうになった。片山氏が「サインはできない」と拒むと、検察官は渋々そこを削除した書面を作り直した、という。

 片山氏は弁護人らに、「疲れました」「録画されていたら、こんな取り調べはできないと思う」などと述べた、とのこと。佐藤弁護士は「検察は片山さんを虚偽の自白に追い込もうとしている。これだから、録音・録画のない取り調べには応じられない」と語気強く語った。

 佐藤弁護士は検察に対し、どうしてもビデオ録画が無理ならば、ICレコーダーなどによる録音でもいいから記録をして欲しい、との妥協案も出していた、という。にも関わらず、検察は頑強に録音も録画も拒んだ。こういうやり方は、捜査機関にとって何のメリットがあるのだろう。

 警察や検察は、録音・録画を行う対象は、裁判員対象事件や知的障害者が被疑者の事件、さらに地検特捜部の独自捜査などに限るとしている。それ以外の事件で、弁護人の請求によって録音・録画を行えば、これが前例となって、可視化の範囲が広がることを恐れているらしい。

 しかし、それ以外の事件では録音・録画をしてはならない、という法律があるわけでもない。事件によって、真相解明のために利すると判断して、捜査機関の裁量で行うこともできるはずだ。弁護人の依頼に応じたという形ではなく、「誤認逮捕や虚偽の自白を招いたケースなので、特に慎重を期す」「IT関係の専門用語が頻出することが予想される」など、本件の特殊性に鑑みて、警察や検察の独自の判断として録音・録画を行うことにした、とするやり方もあった。そのうえで、本件は例外的なケースであり前例として扱わない、とすることも可能だっただろう。

 そうして行う取り調べの中で、片山氏が事件に関わったことを裏付ける証拠があるなら、カメラの前でそれを突きつければいいし、供述に矛盾や不自然な点があれば指摘すればいい。その方が、よほど捜査機関にとってプラスだったのではないか。真相解明を望む国民の期待にも、応えることになっただろう。

 何も自白を取るばかりが取り調べではない。被疑者の話を聞いて間違った嫌疑を正すほか、被疑者の説明を聞いて客観的な事実や他の人の供述などとの食い違いを洗い出したり、不自然な弁解をしている場合にはその旨を記録しておいて、後日の法廷での立証活動に備える、という意味もあるだろう。公判を担当する検察官からすれば、材料は多い方がいいはずだ。

 このままだと被疑者が留置場に籠城し、一切取り調べが行えない状況が続く。常日頃、事案の真相解明のためには取り調べが重要だと強調しているのに、取り調べを行わず、供述には一切頼らない捜査を行う、と方針転換をしたわけでもあるまい。結局、捜査機関は可視化拒否を優先するがあまり、自縄自縛に陥っているのではないか。

 しかも、佐藤弁護士の説明によれば、検察官は初っぱなから敵対的な取り調べを行い、被疑者の反発を招いている。佐藤弁護士は、「丁寧に扱われ、弁護人より検察官の方が信頼できるかもしれない、と信じ込まされる方が危ない。むしろ(糾弾的な取り調べで)よかった」と皮肉たっぷり。検察の対応は、あまりに稚拙だと言わざるをえない。

 それに、捜査機関は前例を気にするなら、録音・録画の拒否を理由に取り調べ拒否をする被疑者が今後続出することを心配した方がいいのではないか。

 本当に、警察も検察も、これで大丈夫なのだろうか…。






















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