英雄の死は、F1という世界から喜怒哀楽の感情を奪い去ってしまった。だが時が流れたいま、人々はもう痛みを恐れることなく、美しいシーンの記憶とともに、その人の名を口にする。ライバルとして鎬を削ったプロストやジャン・アレジ。1994年、王座についたシューマッハー。憧れの感情を抱きマシンを駆るバトンやアロンソ――。この世界の住民たちに、彼は何を残したのだろうか。
19年前の5月1日、この世を去った“音速の貴公子”アイルトン・セナ。
1994年、フォーミュラ・ワンのひとつの時代が終わった。美しく壮絶なひとつの人生に幕が下ろされ、F1はその後何年も喜怒哀楽の感情を失ってしまった。
しかし時が流れたいま、振り返ると、何も終わってはいないという思いが強くなる。アイルトン・セナは5月の陽光のなかで突然、誰にも別れを告げることなく姿を消し、残された私たちは今日も彼を探し続けている――胸を刺すような痛みが時間をかけて少しずつ和らぐと、甘美な悲しみが心に棲みついた。
人々はもう、痛みを恐れることなく“アイルトン・セナ”を口にする。最後の記憶より、美しいシーンだけが何度もそれぞれの心のなかに映し出される。
ピケ、マンセル、プロスト……時代は流れても、セナの物語は続く。
ネルソン・ピケがいて、ナイジェル・マンセル、アラン・プロストがいて……今日のように“滅菌”されていないパドックで、ドライバーたちは誰に強制されることもなく自由に振る舞い、好きなだけ仕事をし、気が向けば取材に応え、機嫌が悪ければモーターホームに閉じこもるか、早々にサーキットを後にした。そんな時代がとうに終わってしまったことは、いまでは60歳に届くか届かないかという年齢の彼らに出会えば“当たり前だ”と思う。
アイルトン・セナだけが少し淋しげな、やっと大人に到達した34歳の表情でそこにいる。みんなが仕事を終えても、エンジニアをつかまえようとホテルのロビーで待っていたころのままで。
セナの物語は、続いているのだ。エゴと野性を受け入れていたF1と一緒に。
だから、ミハエル・シューマッハーが1994年のチャンピオンに輝いても、時代はセナからシューマッハーへと移行したわけではなかった。セナはシューマッハーにバトンを手渡したわけではなく、そのまま走り去ってしまったのだ。残されたドライバーの不幸は、アイルトン・セナのライバルとなり得ないまま、タイトルを獲得したことだった。
念願のウイリアムズ移籍を果たしながらも抱えた孤独。
'94年のアイルトン・セナは孤独だった。あれほど乞われ、自らも焦がれるように望んだウイリアムズ・ルノーへの移籍だったが、そこは6年間在籍したマクラーレンとは違っていた。突然のレギュレーション変更によってハイテク技術を奪われたマシンも、明らかに安定性を欠いていた。そして何より、'91年末にネルソン・ピケが、'92年末にナイジェル・マンセルが、'93年末にアラン・プロストが去ったF1は、セナが知っていたはずの世界ではなくなっていた。
かつてピケは母国の後輩であるセナを「サンパウロのタクシードライバー」と見下し、ありとあらゆる毒舌で攻め立てた。猪突猛進のマンセルは緻密なレースを戦うセナにとってしばしば迷惑な存在となった。プロストについてはあらためて記す必要もない――人々の心を奪いF1のスケールを一気に拡大するほど、ふたりのライバル関係は熾烈に、類を見ないほど長く続いた。
先輩ドライバーたちの誰に対しても、素直な好感を抱いていたわけではなかった。しかし彼らが、とりわけアラン・プロストがいたからこそ、セナは10年間ずっと、タイトルを獲得した後も、挑戦者でいられたのだ。
現役でただ一人のチャンピオンとして迎えた'94年だったが……。
'94年の彼は“現役でただひとりのチャンピオン”だった。
開幕戦のブラジルGPも、TIサーキット英田で行なわれた第2戦パシフィックGPも、ポールポジションはアイルトン・セナが獲得した。しかしそれは、ドライビングという芸術の頂点を極めた技によるもので、完成が遅れたウイリアムズFW16は305kmの間、素直にドライバーに従うようなマシンに仕上がってはいなかった。セナを追ったのは25歳のミハエル・シューマッハーで、彼のベネトンはウイリアムズに先んじるかたちで、ウイリアムズよりも巧みに、このシーズンからの新規則に対応していた。
サンパウロでは、この年から導入された給油のためのピットストップで、シューマッハーがセナの前に出た。英田では、スタートでセナがホイルスピンした間にベネトンが先行した。サンパウロのセナは71周レースの56周目にスピンしてリタイア。英田ではスタート直後にミカ・ハッキネンのマクラーレンと接触、1コーナーでコースアウトしたウイリアムズに他のマシンが突っ込むかたちでセナのレースにあっけない終止符を打った。
自らのミスを詫び、挽回を誓う姿に周囲が驚いた。
FW16に多くの改善が必要であることは、セナも承知していた。しかし何かが、彼の理解の範囲を超えていた――ベネトンが全チーム共通である給油装置を改造していたことが判明したのは、ずっと後のことだ。彼らの電子制御ボックスに、禁止されているスタートシステムのプログラムが見つかった際にも、FIAがさかのぼってペナルティを科すことはなかった。ベネトンだけが巧妙だったわけではなく、FIAには自分たちが課した急激な規則変更をコントロールする力が備わっていなかったのだ。各チームが独自のルール解釈をした結果、厳密に“法の意図”に従ったトップチームはウイリアムズだけであった。
しかしシーズン序盤の段階では、セナがその全容を知る由もなかった。開幕2戦をノーポイントで終えた彼は、ロータス・ルノー時代以来、旧知の仲であるルノーのファクトリーに足を運び、ミスを詫び、挽回を誓った。
「アイルトンのあんな様子は初めて見た」と、ルノーの技術者が振り返った。
「ようこそ、F1の世界へ」と声をかけたセナの複雑な心中。
'94年にF1デビューしたオリビエ・パニスは、英田での短い会話がセナとの唯一の思い出だと言う。
「アイルトンは僕らのガレージまでやって来て『ようこそ、F1の世界へ』と声をかけてくれた。ものすごく温かく微笑んで」
目に見えない力で世界が変わっていく――そんな孤独のなかで、セナがいささか不器用に、自らの殻を破ろうとしていた様子が切ない。
コース上でもっとも近くにいたのはミハエル・シューマッハーだった。しかし10年の間、常に意識のなかにいたプロストと比べれば、ドイツからやって来た青年は異星人のようだった。世代も、話し方も、コース上での態度も、何もかも温度が違っていた。セナに憧れてF1にやって来たドライバーとセナ自身が対立するのは、初めてのことではなかった。
「アイルトンと多くを話したことはない。でも、コース上で出会った彼は、いつも至福の瞬間をもたらしてくれた」と振り返るのは、ジャン・アレジだ。'90年の開幕戦フェニックスでの攻防はいまも語り継がれているが、あの一度きりではなかった。
アレジが振り返るカナダGPでのサイド・バイ・サイド。
「マシンの性能が違うから、本物のポジション争いをする機会は多くはなかった。でもレースの流れや作戦によって、出会うチャンスは何度もあった。ある年のカナダGPでは、アイルトンの前輪、僕の前輪、彼の後輪、僕の後輪が縦一列に並ぶほど接近して高速のS字を抜けたことがある――接触すれば間違いなく大事故につながる状況で、僕は多くのことを考えた。そして最後の瞬間に“相手はアイルトン・セナだ”と決心した。時間にすれば一瞬の思考だったけれど、ものすごく長く感じられたね。僕とアイルトンは正確に数センチの間隔を保ちながら、同じようにアクセルを踏み続けた。その後、バックストレートから最終コーナーのシケインを抜けて1コーナーまで、僕らは真横に並んで走り続けた。あんな戦いは、他の誰ともできない。ミハエルと? 無理に決まってるじゃないか」
私生活では仲の良いシューマッハーを評して「F1にジグザグ走行を持ち込んだのは彼だよ」と、アレジは寛容に微笑んだ。
「このタイトルを、アイルトン・セナに捧げたい」
'94年のアデレードで初めてのチャンピオンに輝いたシューマッハーは、こう語った。混乱を極めたシーズン、政治に揉まれ、出場停止や失格によって16戦中4戦を奪われながら、それでもがむしゃらにタイトルを獲りにいったのは「本来、その資格があるたったひとりの存在に捧げるため」であったと告白した。
「41勝目」を飾ったシューマッハーが涙を流した理由とは?
セナのライバルとなるチャンスを永遠に失ったシューマッハーには、そうするしかなかった。それでも、心の空隙は埋まるはずもなく、彼はセナが成し遂げようとしなかったこと――フェラーリとともに王座を勝ち取るという壮大な挑戦に、身を投じていく。勝利のためなら、あからさまに反スポーツ的な行為さえ厭わない姿勢はしばしば批判を浴び、ドライバー仲間から敬意を得ることもなかった。'97年の最終戦では、タイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴに故意に接触したとして、選手権の最終結果から除外される厳罰も受けた。シューマッハーにしてみれば、自らのどんな行為よりも、セナの不在が理不尽だったのかもしれない。
初タイトルの美しいスピーチは、その後の彼が生み出した様々な論争にかき消され“シューマッハー世代”のF1ファンにとっては、戦績や記録だけがふたりを結びつける要素となった。シューマッハーもまた孤独を抱えて戦ってきたのだと人々が気づいたのは、2000年のイタリアGP――41勝目を飾ってアイルトン・セナの記録に並んだ気持ちを訊ねられた彼は「走り続けていればアイルトンはずっと多くの勝利を飾れたはずだから、41勝を彼の記録と捉えるのはフェアではない」と言い、突然ボロボロと涙を流し始めた。彼が人前で感情を制御できなくなったのは、後にも先にもこの一度きりだった。
バトン、アロンソ、ハミルトンらにとっての“セナ像”。
そのミハエル・シューマッハーが昨シーズン末に2度目の引退を決め、2013年のグリッドには初めて、アイルトン・セナと走った経験のないドライバーだけが並ぶことになる。彼らにとってセナは、その時代背景とともに純粋な憧れの対象だ。F1は今よりずっと簡素でも、コース上の戦いはゴージャスだった。
「僕の記憶に残っている初めてのF1は、'89年の日本GP。セナとプロストがシケインで接触したことよりも、そこに至るまでの熾烈な戦いを鮮明に覚えている」と、ジェンソン・バトンは言う。フェルナンド・アロンソにとっても同じグランプリがもっとも古いF1の記憶。セナはスペインのカート少年のヒーローになり、永遠の目標になった。ルイス・ハミルトンの黄色いヘルメットはブラジルの英雄に倣ったもの……。
さらに若い世代のドライバーにとって、アイルトン・セナは伝説の英雄になる。生中継よりも、ビデオやDVDを繰り返し見てセナに夢中になった彼らは、少し年上の先輩よりも記録に詳しい。23歳のダニエル・リカルドは、映像と、父親が話してくれたセナに強く憧れ「いつか彼のように、濡れた路面を走れるようになりたい」と言う。シーズン中もっとも設備が古めかしいインテルラゴスのサーキットさえ「彼が走った時と変わらないコース」「彼がいたのと同じパドック」として郷愁を生む。
現在のドライバーたちが享受する幸福は、一人の英雄が礎となった。
アイルトン・セナという星を中心に、宇宙が広がっていく。
1994年以来、F1界においてもっとも画期的な進歩を遂げたのはサーキットとマシンの安全性だ。いまでは“F1ドライバー”という言葉にも刹那的な響きはない。それでも、セナがそこで輝いているかぎり、ドライバーたちは忘れはしない。自分たちが享受している幸福が、何を礎に築かれたのかということを。
僕の友達、アランへ。I miss you!
あのイモラの土曜の朝、フランスのテレビのためにコース紹介をする直前、セナが走行しながら送ったメッセージが、日曜朝の放送を通してぎりぎりのタイミングでプロストを解放したこと、そしてバトンを受けることのなかったシューマッハーが孤独なチャンピオンとなったことを、彼らはみんなどこかで感じ取っているから――。
※Ayrton Senna
1960年3月21日、ブラジル・サンパウロ生まれ。'84年にトールマンからF1デビュー。'85年にロータスに移籍し、ポルトガルGPで初優勝。マクラーレン・ホンダに移籍した'88年に初タイトルを獲得。'90、'91年にもチャンピオンに輝いた。'94年にウイリアムズに移籍し、同年5月1日サンマリノGPで衝撃的な最期を遂げる。161戦出走、優勝41回。