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松井秀喜、引退へ”結果が出せなくなった。それに尽きます” 星稜高チームメートの記者振り返る

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 プロ野球の巨人、大リーグのニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した松井秀喜外野手(38)が現役引退の意思を固めた。松井選手は関係者に「結果が出せなくなった。それに尽きます」と話しており、27日(日本時間28日)にも正式に表明する。日米通算507本塁打を放ち、2009年にはヤンキースでワールドシリーズ最優秀選手(MVP)に輝いた松井選手は、プロ20年目の今季、開幕後にタンパベイ・レイズと契約を結んで渡米10年目のシーズンに臨んだが、不振で8月に自由契約になり、契約先を探していた。

 松井選手は星稜高(石川)時代から強打者で知られ、1992年夏の全国高校野球選手権2回戦の明徳義塾(高知)戦では5打席連続敬遠されて論議を呼んだ。同年秋のドラフト1位で巨人に入団し、セ・リーグMVP、本塁打王、打点王を各3度、首位打者を1度獲得。2002年オフにフリーエージェント(FA)宣言してヤンキースに移籍し、06年5月の試合中に左手首を骨折して欠場するまで、日米通算1768試合に連続出場した。07年には、日本人ではイチロー選手(ヤンキース)に続いて2人目となる日米通算2千安打を達成した。

 09年限りでヤンキースを退団し、10年はロサンゼルス・エンゼルス、11年はオークランド・アスレチックスでプレーした。

 
 日本を代表する長距離打者がユニホームを脱ぐ。8月に大リーグのレイズを自由契約となった松井秀喜外野手(38)。王貞治のシーズン55本塁打を目標に背番号「55」を背負い、豪快な打撃や容姿から「ゴジラ」の愛称で親しまれた。

 星稜高(石川)のチームメートとして喜怒哀楽を分かち合った記者が、友の歩んだ道を振り返った。

 衝撃的な出会いだった。私が16歳になる年の春。入学したばかりの星稜高(石川)の教室で、身長185センチを超える大男も、白い練習用ユニホームに着替えていた。身長180センチの私より一回りも二回りも大きい。体の厚みが違った。体格だけではない。初日の打撃練習で度肝を抜かれた。山下智茂監督(当時)が「1年生は打撃練習」と指示。私はその頃、石川県には数少なかった中学硬式クラブチーム出身で、鋭い打球を放ち得意満面だった。その自信を、数カ月前まで同じ中学生で軟式出身だった松井が簡単に覆した。打撃マシンの球を、初球からバックスクリーンへ放り込んだ。バットのグリップ付近で詰まっても、体の逆方向へ流し打っても柵越え。守っていた2、3年生が静まり返った。圧倒的なパワーと飛距離で、星稜高初の1年生4番となり、すぐ試合に出場した。繊細な計算をしていた。ティー打撃は、ボールの下半分をたたく。球をこする感じで、練習を繰り返した。「ボールに逆スピンをかけて、遠くへ飛ばすためです」。冬季練習中、山下監督の質問に、そう答えていたことを思い出す。ウエートトレーニングも下半身と背筋を徹底。3年生になると、競輪選手のような太ももに加えて、ユニホームの上からでも背骨の位置が分かるほど背筋が盛り上がった。長距離打者としてのパワーと技術の両方を磨き、プロ野球という次のステージへと上った。「清原さんや桑田さんと違い、俺は打たなくて甲子園で有名になった」。3年夏の全国高校野球選手権、明徳義塾(高知)戦での5打席連続敬遠を冗談っぽく振り返る。強運に恵まれ続けたのも、松井の野球人生だった。ドラフトも第1希望の阪神ではなく、運命の人・巨人の長嶋茂雄監督(当時)がクジを引き当てた。長嶋監督は「4番1千日計画」をぶちあげ、巨人の主砲へ育て上げた。東京ドームでの試合前、東京・田園調布の監督の自宅で直接指導を受けたことも。素振りで「バットが空を切る音でどこが良いか、悪いのかがわかるようになれ」と言われた。松井は「プロでやっていくための、打撃の基礎を築いて頂いた」と言う。現役引退まで、素振りは、松井の調整の原点となった。日本で打撃タイトルの常連となった松井にとって、大リーグ挑戦は自然な流れだった。自信はあったはずだが、2003年、渡米1年目を終えて帰国した時の声のトーンは低かった。「まるで、スポーツが違うようだ」。大リーガーは、スピードはもちろん、パワーが桁外れだった。当時は、筋肉増強剤(ステロイド)への監視も今ほど厳しくなく、化け物のような体格の選手の中で、松井は埋もれていた。持ち前の対応力で2年目の04年には日本選手で初めて30本を超える31本塁打を記録したが、最大の分岐点となったのは06年、左手首骨折の負傷だろう。長距離打者に必要とされる、投手と反対側の手や腕で球を押し込む力が弱くなった。さらに、両ひざの負傷が追い打ちをかけた。悪いなりに微調整しながら09年のワールドシリーズで日本選手初の最優秀選手に輝いたのは、積み重ねた努力の結晶かもしれない。その後も相次ぐ負傷に苦しめられたが、心は折れていなかった。最後まで現状でのベストを維持しようと、練習を継続していた。高校時代、松井の部屋の机には1枚の色紙が飾られていた。「努力できることが、才能である」。父・昌雄さんから贈られた言葉。恵まれた体格におごらず、最後までその教えを貫き通した打者だった。

〈まつい・ひでき〉 1974年6月12日、石川県根上町(現能美市)生まれ。38歳。星稜高(石川)では1年生で4番。三塁手として3年時に春の選抜出場、夏の全国選手権は3年連続で出場した。92年夏の2回戦の明徳義塾(高知)戦では5打席連続で敬遠された。ドラフト1位で93年に巨人入り。外野手となり、セ・リーグ優勝4度、日本一3度を経験。リーグ最優秀選手(MVP)、本塁打王、打点王を3度ずつ獲得し、2001年は首位打者。03年にFAでヤンキースに移籍。大リーグ4季目の06年5月に左手首を骨折するまで日米通算1768試合連続出場の記録を作った。07年5月、日本人ではイチロー(現ヤンキース)に続いて2人目となる日米通算2千安打を達成。09年のワールドシリーズで優勝し、シリーズMVPに輝いた。10年以降はエンゼルス、アスレチックスと毎年移籍し、今季は7月にレイズから戦力外通告を受けた。08年に結婚。188センチ、95キロ、右投げ左打ち。




















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