西武秩父線の存続が取り沙汰された西武鉄道。実は秩父だけではなく、東京西部の奥多摩にも乗り入れ、一大観光地として開発する計画があった。「第二の箱根に」とまで意気込んだ構想はなぜ、実現しなかったのか。どんな内容だったのか。計画の全貌を追った。
■青梅街道沿いに廃線跡 橋やレールも
東京都最西端に位置する奥多摩湖。青梅街道を西に進めば山梨県となり、北は秩父連峰を望む。山に囲まれた静かな湖は、小河内(おごうち)ダム建設に伴い生まれた人造湖だ。
東京都民の水がめである小河内ダムは、1957年(昭和32年)に竣工した。地元の反対で用地買収は難航し、工事が始まると87人もの犠牲を出し、最後は神奈川県と水利権を巡り激しく対立するなど曲折を経ての完成だった。
湖畔にある解説板によると、ダム建設当時、国鉄青梅線氷川駅(現JR奥多摩駅)から工事現場まで、物資を運ぶための専用の鉄道があったという。その名も水根貨物線。湖畔に置かれた水根駅が終点だった。
奥多摩湖周辺を歩いてみると、当時の線路が今も残っていた。橋やトンネルもある。どこも雑草に覆われ、いかにも「廃線」といった風情が漂う。
実はダム建設後、工事用だったこの路線を観光鉄道に衣替えする計画が持ち上がっていた。
■西武鉄道、ダム工事用の線路を1億円超で落札
「鉄道未成線を歩く」(JTBパブリッシング)などの著書がある鉄道研究家の森口誠之さんによると、名乗りを上げたのは西武鉄道。東京都が実施した公開入札で、1億3000万円で落札したという。なぜ西武鉄道?
「西武鉄道は拝島線を国鉄青梅線に乗り入れさせる計画を検討していました。終点の氷川駅から延びる水根貨物線と連絡させ、奥多摩湖周辺を観光地として開発する構想だったのです」
西武拝島線といえば、東京都小平市の小平駅から東京都昭島市の拝島駅まで走る路線で、西武新宿駅ともつながっている。拝島駅はJR青梅線と連絡していて、しかもレール幅は西武とJR、どちらも1067ミリ。確かに物理的には奥多摩まで乗り入れることは可能だ。
森口さんによると、西武鉄道が運輸省(当時)や東京都に提出した資料が残っているという。そこで国立公文書館で調べてみたところ、興味深い文書を見つけた。
■「豊島園、西武園にささげた情熱に倍する努力と資金を傾注」
「奥多摩湖開発についての陳情」と題したその文書には、9ページにわたって計画の意義や内容が記されていた。1963年(昭和38年)提出の資料の一部を引用しよう。
「せっかく親しまれ始めたものの、開発が進まず忘れ去られようとしている奥多摩湖の現況を見ます時、その実態は期待を持った地元民はもとより、単に東京都民のためならず、国土の狭隘(きょうあい)と資源の貧困をかこつ日本のため放置できない重大事と存ずるものであります」
その上で、次のように意気込む。
「当社は豊島園、西武園箱根園等に捧げた情熱に倍する努力と資金を傾注して社会の要望に添うべく『第二の箱根』にも比すべき開発を計画することが経験と実績を有する当社の使命であると確信し、あらためて実行を決意した次第であります」
■ホテルや遊園地、ヘリポートに「高級」キャンプ場も
これほど強い決意でまとめた計画とはどのようなものだったのか。同社が東京都に提出した「奥多摩湖施設計画概要図」を見てみよう。
核となるのは東京方面からの玄関口、水根駅と一体化したステーションビルだ。そこからロープウエーやリフトを乗り継ぐと倉戸山の麓に出る。
ヘリポートも備わった駅の前にはホテルや遊園地があり、そこから湖畔にかけてキャンプ場が点在する。わざわざ「高級キャンプ場」と銘打つからには、それなりの設備を見込んでいたのだろうか。
概要図によると、湖の水面上を渡るロープウエーが計画されていた。陳情書には「楽しみながらダム周辺に至るルートを開発する」とある。その南側にも遊園地があり、湖面上には「モーターボート遊園地」、その横には「踊る噴水」があった。
全般に鉄道の利用を促すための計画ではあったが、車で訪れる人にも目配りしてある。各所に駐車場を配置し、ドライブインもあった。東京都に道路の整備も要請している。さらには西武自動車による観光バスの増発を計画していて、水根駅付近にバスターミナルを設置する予定だった。
これらをすべてゼロから作り上げるとは、何とも壮大なプランだ。
■秩父でも「箱根や軽井沢のような観光地」目指す
奥多摩の開発構想とほぼ同時期に、西武鉄道ではもう一つの計画を進めていた。秩父の開発だ。
西武鉄道が秩父線の免許申請を行ったのは1957年。ちょうど小河内ダムが完成した年だ。埼玉県飯能市の吾野駅まで走っていた西武池袋線を秩父まで延伸するという計画は、1961年(昭和36年)に免許が下りる。
ちょうどこの頃、西武鉄道社内では秩父の観光開発について検討を進めていた。この辺りの経緯は、同社の内部文書を検証した論文、「私鉄資本の進出に伴う秩父地方の変容」(淡野明彦、1974年)に詳しい。
淡野論文によると、1966年(昭和41年)、西武鉄道は「秩父線建設計画について」という社内文書を策定。秩父線の目的について、天然資源の開発と同時に「未開発の観光資源を開発する」と明確に打ち出した。実際、1962年(昭和37年)から秩父市内の土地買収を始めたといい、その後10年で100万坪もの土地を取得したという。
1971年には買収した土地の一部を利用して小規模の観光公園、「秩父ファミリーパーク」を開いた。将来的には秩父全体を箱根や軽井沢のような一大観光地にしたいと考えていたらしい。
■西武秩父線、軽井沢延伸構想の真相は?
ところで時々話題になる「かつて西武秩父線の軽井沢延伸構想があった」という話は本当なのだろうか。調べたところ、吉野源太郎著「西武事件」(日本経済新聞出版社)に興味深いエピソードがあった。
著者が秩父セメント(現・太平洋セメント)の社長だった諸井虔氏から直接聞いた話として紹介している。諸井氏は秩父鉄道を西武鉄道に買ってもらおうと、当時西武鉄道社長だった仁杉巌氏に持ちかけた。すると仁杉社長は断り、さらには「(堤)義明さんには言わないでほしい」と固く口止めされてしまった。なぜか。
堤義明氏はそのころ、西武秩父線の軽井沢延伸を夢見てヘリコプターでルートを探し回っており、「この話が知れたら飛びついてしまう」。とんでもない不採算事業を抱え込むと警戒しての発言だった、という。
堤氏が想定したルートは次のようなものだった。
西武秩父駅から秩父鉄道に乗り入れた後、寄居駅でJR八高線と接続する。しばらく八高線を走り、高崎駅でJR信越本線に乗り入れれば軽井沢までは目の前、というわけだ。その後、この構想がどうなったかはわからなかった。
■奥多摩湖の渇水が計画に水指す 西武幹部「やらなくてよかった」
秩父の開発は、奥多摩の開発とも関係していた。
西武鉄道が東京都に提出した陳情書には、「秩父三峰地区雲取山並びに倉戸山を結ぶ山岳縦走コースの開発」との記述がある。つまり、奥多摩にある倉戸山から雲取山、三峰山を経由して秩父方面に抜けていく登山ルートを整備する方針だったようだ。奥多摩と秩父を一体的に開発する狙いが透けて見える。
強い意気込みが感じられる構想はなぜ、実現しなかったのか。
公文書を調べていくと、同社は意外にも早い段階で奥多摩の開発構想を取り下げている。湖畔から倉戸山までのケーブルカーの免許が廃止となったのは1964年(昭和39年)。なんと、東京都に対して「第二の箱根に」と訴えた翌年だ。構想が浮上した年から数えると6年後ではあるが、いくら何でも早すぎるのではないか。
撤退の理由について、同社の元常務、長谷部和夫氏は鉄道雑誌でこう語っている。
「世の中が自動車時代になってきたこと、小河内貯水池がしょっちゅう渇水で水がなくなってしまうものですから行楽地としてどうかということなどで断念しました」「結果的には、やらなくてよかったという感じです」(「鉄道ピクトリアル」1992年5月号増刊)
あれだけ詳細に描いた構想のあっけない結末。そして残ったのが秩父の開発だった。
■ファミリーパーク、ミューズパーク…… 失敗続きの秩父開発
1971年に開園した「秩父ファミリーパーク」はどうなったのか。あちこち調べたがほとんど資料がない。雑誌や新聞記事などを調べてようやく見つけたのが朝日新聞の記事だ。
朝日新聞埼玉版掲載の「リゾート開発はいま 晩秋の秩父から2 夢の残骸」(1990年11月21日付)という記事によると、ファミリーパークは開園の2年ほど後にひっそりと閉鎖したという。記事によると、西武鉄道は秩父では失敗続きで、ロッジなどいくつかの観光施設が数年で閉鎖したという。
鉄道史に詳しい青山学院大学の高嶋修一准教授は「西武秩父線の建設に多大なコストがかかり、沿線の本格開発まで手が回らなかったのだろう」と推察する。結局、秩父を箱根に、との構想も幻に終わった。
その後、1991年(平成3年)には西武鉄道と埼玉県が共同で開発した「秩父ミューズパーク」が開園し、テニスコートやアイススケート場がオープンする。しかしこちらも赤字続きで経営は苦しく、ついに2006年末、西武グループは施設を秩父市に無償で譲り渡した。
西武鉄道は現在、秩父を舞台にした人気アニメと連携するなど、沿線のPRに力を入れている。地元から西武秩父線存続を求める声が高まるなか、米投資会社サーベラスと西武ホールディングスの攻防は山場を迎えている。