ミュージシャンの長渕剛さん(55)が、東日本大震災の1か月後に自衛隊の基地で行った「慰問ライブ」の様子を、ワイドショーのインタビューで振り返った。救助活動に尽力する自衛隊員の「心の動きに黙ってられなかった」という長渕さんだが、ライブが実現した原動力のひとつは、自分が故郷に「疎開」したことに対する「自責の念」だった。
長渕さんは2011年4月16日、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた航空自衛隊松島基地(宮城県東松島市)を訪れ、約1500人の隊員を前にヒット曲6曲を披露。長渕さんは、「みなさんは日本の誇りです。僕の僕の僕の、大事な誇りです」と大声で激励。多くの隊員が涙を流して喜び、この時の様子は、ツイッターでも「感動した」などと話題になった。
長渕さんは12月30日放送のフジテレビ系のワイドショー「とくダネ!」のインタビューに応じ、ライブが実現するまでの思いを語っている。インタビューでは、ライブのきっかけとして、「自分の基地が崩壊している。『我が家が崩壊している』ということと一緒ですよね。それでも、目の前にある『助けて!』っていう人間の悲鳴や、『助けて!』っていう小さな子どもたちのまなざしや、腕をきちっとしっかりと持ってね、引き上げている。理屈のない、愛の満ち満ちた世界っていうのかな。その(自衛隊員の)心の動きに黙ってられなかったんですね」と、自衛隊の活動に報いたいという思いがあったことを明かしている。
だが、ライブ実現には、長渕さんの別な感情も影響しているようだ。福島第1原発事故をきっかけに、長渕さんは一時故郷の鹿児島県に「疎開」したのだという。長渕さんは、この時の様子を「おれ何やってんだって。テメェだけ逃げて、それで歌を何十年も歌ってきて、『それいくぞ!ひとつになるぞ!』なんてシャウトしてきたつもりが、結局、おれ何やってんだよ。故郷にぬくぬくと逃げて、何、悠々自適にやってるんだよ。すごい自責の念が押し寄せてきましたよね」と、「自責の念」という言葉で表現。自分の姿と自衛隊を対比した時に、「あの渦中に自衛隊の方たちに、誰かが『好きだよ』、誰かが『お前ら最高だよ!』って言ってあげなきゃ、誰が行くんだという気持ちも、すごくありましたよね」と、自分のすべきことが見えてきたということのようだ。さらに、「彼らの中に脈々と生き続けている日本人であるとことの誇りとか、そういったものがあるんですよね。そこをなぜ、僕たちは、いつのころから『見ないでおこう』というふうになってしまったんだろう。彼らの活躍が自分の目の前に飛び込んでこなかったら、悠々自適に、他人ごとのように、何もない顔で、毎日を生きていたかもしれない」と、今回の震災は、日本人としてのあり方を考え直すきっかけにもなったようだ。
なお、長渕さんは、1年を締めくくる12月31日の紅白歌合戦では、被災地の宮城県石巻市から、新曲「ひとつ」を披露する。
長渕さんは12月28日の「あさイチ」(NHK)にコメントを寄せ、「被災した方々の無念さ、悔しさや恐怖、いろんな思いを僕は背中に感じながら、思いっきり優しく優しく歌ってみたいなという思いに、(中継予定地を訪れた)今日なりました。そして、見ている人が『色々あったけど、また来年からも頑張ろうよ』って気持ちになれるような、そんなシーンを作れたらいいなと思いますね」と、意気込んでいた。
(J-CASTニュース「長渕剛、被災地自衛隊ライブの原動力 疎開した自分への「自責の念」だった」より)
まったく税金も民間からの金ももらっていない人、また、その活動が自分の仕事にも金にはつながらない人が、自衛隊のような活動を行い、それが目に飛び込んできたら感動するかも知れないが、税金によって被災地の被害者にあてがわれた自衛隊員の活動を見ても「大変だな」と思うぐらいで、特別な感動をもたらさなかったのに対して長渕剛さんは特別に感動したのだという。「それいくぞ!ひとつになるぞ!なんてシャウトしてきた」人だから、特別に人の目が気になったのだろう。
あてがいといえば、先生とか教師もそうだが、日本人の行動原理(心=本能+思考)は恩と怨が中心だから、このふたつの言葉で表現しなければいけないらしく、恩のある表現で恩師、そう呼ばなければ何やら先生とか教師に対する怨みでもあるかのように受け取ってしまうようだ。先生や教師はあてがいではなく、憲法では選択権は親にあるのだが、戦中の教育制度に骨の髄まで浸かっている者にとって、あてがわれることはまるで変えることのできない宿命のように感じとれるものであるらしい。
私は先生や教師をあてがわれた。自分が選んだ師ではない。だから彼らに対して特別な感慨は何もないが、しかし、恩と怨のみの心の持つ主にとって、そうした態度は非常に奇異に見えるものらしい。それと関連するが、自分の生まれる場所や死ぬ場所は自分で決められない。どこで生まれ、どこで死ぬのかわからない。でも、自分の生まれる場所はふるさととして日本人にとって絶対的な特別な場所であるらしい。確かに幼児期の環境は刷り込まれる。刷り込みはなかなか人の一生を拘束力すら持つ。だからといって、それに従わないことが悪であるわけがない。
ところで長渕さんの新曲「ひとつ」を見たが、後方の学校が廃校に見えて、しかもそのライトアップが「そこであの陰惨な事件が起こったのです」とナレーションが入りそうなホラーかスリラー映画の幕開けのシーンのように見えて、その印象から「ひとつ」を聞くにつれて、この人幽霊とでも一緒になるちもりなのだろうと思いつつ、彼の怨念に宇津巻いているような書まで浮かんできて、すっきりした感動は起こらず、何やらいつまでもドロドロしたものが、その地域には残っていくのだろうと思うと、寒さも急に増した大晦日だった。