沖縄で10月16日に起きた米兵2人による集団女性暴行事件は、日米安保体制だけでなく、日本の国家統治にも深刻な影響を与える問題らしい。沖縄では保革を越えた「島ぐるみ」での米軍と日本政府に対する反発が強まっている。
10月18日付琉球新報は次のように報じた。
喜納昌春県議会議長は、「基地がある故の被害で、戦後67年間、何百回も繰り返されてきた。事件事故を抜本的に解消するため、一日も早く沖縄から米軍基地をなくすべきだ」と述べ、在沖米軍基地の即時閉鎖・撤去を求めた。「県民の基本的人権が守られない差別的な状況だ。日米両政府は地位協定を抜本的に見直すべきだ」と糾弾した。照屋義実県商工会連合会会長は「人権感覚を失った米軍の体質が如実に表れた。オスプレイの強行配備で騒然とする中、このような凶悪事件が発生するのは絶対に許せない。度重なる事件事故の源流には、沖縄を差別する日米地位協定の問題がある。繰り返される事件が運用改善では不十分だと証明している。地位協定は抜本改定すべきだ」と両政府に対応を求めた>
ここで留意しなくてはならないのは、照屋会長は日米安保体制を認める保守陣営に属する沖縄のエリートで、喜納議長は保革を超えた沖縄県民党的立場を表明していることだ。
沖縄のエリートとしては、地位協定の撤廃が最優先であり、米兵の事件が起こってもいいということなのだろう。また、沖縄県民党的立場にある人にとってが「公害は工場があるから起こる。だから全工場をストップすればいい」としているわけで、そうした行動が回り回って自分の首どころか、国民の首を絞めることになると言うことは一切考慮にない。
沖縄県の女性に対する集団強姦致傷容疑で米兵2人が逮捕された事件で、在日米軍は日本に駐留する全米兵を対象に夜間外出禁止令を出した。米兵の犯罪が絶えない沖縄では「米軍が事件を深刻に受け止めた結果」との評価も出たが、米兵相手の飲食店にとっては客足減少につながる諸刃の剣。基地の街には不安も漏れた。一方、事件への抗議は沖縄でやむことがなく、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが配備された宜野湾市の米軍普天間飛行場ゲート前であった集会では、市民らが「あしき隣人は出て行け」などと怒声を上げた。
「あしき隣人」とは沖縄本来の言葉ではない。多分、その”市民ら”の中にクリスチャンがいるのだろう。「よき隣人」に対する「あしき隣人」か? もっとも両方とも聖書には出てこない言葉だが。
夜間外出禁止令について、沖縄県の上原良幸副知事は「米軍が事件を深刻に受け止めた結果と考えている」としながらも「実効性については今後、精査、検証していく必要があると考えている」と述べた。沖縄県では08年2月、女子中学生に暴行したとして米兵が逮捕されたり、女性宅に住居侵入したとして逮捕される事件が続き、米軍が外出禁止令を出した。そして、その期間に不祥事は起きない。別の県幹部は「米軍の外出制限が守られているかどうか、情報を収集していく」と話した。
一方、米空軍嘉手納基地がある沖縄市。客の半数が米軍関係者という寿司店主、在塚(ありづか)信夫さん(43)は「この店だけでなく、米兵が来る飲食店へのダメージは大きい」と話した。ただ「ひどい事件だったので外出禁止は仕方ないのではないか」とも語った。確かに、集団強姦事件を「酷い事件」だとするなら、その通りなのだが、事件そのものが「酷い事件」だったという認識は日本人の誰も持ちえないだろう。
本土の基地の街でも懸念が広がった。米海軍佐世保基地がある長崎県佐世保市。基地に近い「外人バー」の50代男性店員は「週末から客が途絶えるのは大きな影響がある。ここに来る兵隊さんは優しい人ばかりなんだがねえ」と言葉少な。別の店の男性店員(32)は「(長引けば)店を閉じる経営者も出てくるかもしれない」と不安を隠さなかった。米軍岩国基地(山口県岩国市)近くで70年代からカントリーバーを経営する永峯守俊さん(73)は「ひどい事件だ。でも夜間外出禁止で困るのは基地近くのバーやスナック。本当に再発防止につながるのか」と表情を曇らせ「今は長期化しないことを祈るだけ」と話した。
普天間飛行場ゲート前の抗議集会は沖縄平和運動センターが主催し、午後6時から約300人(主催者発表)が集まって始まった。
ヘリ基地反対協の安次富(あしとみ)浩共同代表は「在日米軍が夜間外出禁止になったが、そんなものではごまかされない。米軍基地を撤去しなければ安心できる街にはならない」とあいさつ。参加した大学4年生、西本真梨さん(22)は「非力な女性を兵士2人がかりで襲うという卑劣な事件。同じ女性として黙っていられなかった」と話した。集会中も参加者が増え、その後のデモ行進には約400人(主催者発表)に。「女性暴行事件糾弾」「オスプレイ配備撤回を勝ち取るぞ」などとシュプレヒコールを上げながら約1.5キロを歩いた。
米兵以外による強姦事件の犠牲者は、世間の関心すら惹かない場合が多い。その意味で、米兵に強姦された人は、世間の同情も集めるし、事件も糾弾されるしで、幸せなのかも知れない。
沖縄で、2名の米軍人による集団強姦致傷事件が発生した。事件としてはさほど珍しい形態ではない。事件として処理すれば済む。しかし、沖縄では大騒ぎである。『オスプレイの件で、反米軍感情が高まっている所にこれですから、これで更に感情が悪化することは避けられず、思わず天を仰ぎたい気持ちになりました』とする人すらいる。
また、米軍人の沖縄に対する認識に、どこかナメたような所があるとする人もいる。そして『本土の米軍人は、お客さん的な、どこか周囲に遠慮した感がありますが、沖縄の米軍人は、米本土にいるかのような感覚を持っているように思います。それは、米軍人にとっては開放感であり、喜ばしい事なのかも知れませんが、こう言った事件の遠因にもなっているでしょうから、単に”綱紀粛正”というだけでなく、何か認識を改めさせるような教育が必要であるように思います。』としている。そういうことが事実であるかどうか知らないが、そうした感覚を米兵が持っているとしたら、それは彼らに接する沖縄人側に問題があるのだろう。
続けて、その人は『この事件に対する沖縄と本土の温度差があるという。『私は、この事件の一報に触れた際、「これはマズイ」と思いました。これを機に、反米キャンペーンが起こるのではないかと懸念したためです。ところが、翌日からの報道を見ていると、全国紙は、産経以外が社説を掲げたものの、その後は、淡々と事実関係を報道するだけになっていました。それを見て、ホッとしたのは事実です。ですが、良く考えてみると、これは更に恐ろしい事態を惹起しかねません。オスプレイの配備は、台湾防衛、ひいては尖閣・先島・沖縄防衛に必須のものですから、沖縄の反対が強くても、説得を続けて納得してもらわなければなりません。沖縄県民だって、尖閣に対する中国のあからさまな野望を見ていれば、例え軍事に明るくなくても、防衛力強化の必要性は分かるでしょう。ですが、こう言う事件に対する感情において、本土の人間が、沖縄県民にシンパシーを抱いていないとなったら、沖縄県民は、自分達はいらん子なんだと思ってしまうと思います。かつて、西銘順治元沖縄県知事は、沖縄の心を、ヤマトンチュウ(大和人)になりたくて、なり切れない心と表現しましたが、こう言う状態が続けば、当のウチナーがヤマトンチュウになりたいとは思わなくなってしまう可能性があります。そうなれば、それこそ中国につけ込まれます。今回の事態に対して、米軍当局は相当に危機感を感じているようで、在日全米軍将兵に夜間外出禁止を命じるなど、対応策を探っています。集団的自衛権の解釈変更が行われ日米同盟の片務性が解消されない限り、及びPC遠隔操作による冤罪発生があったように日本の司法当局が人権を軽視した活動を改善しない限り、地位協定の改定自体は難しいと思います。ですが、沖縄メディアだけでなく、全国紙も、沖縄県民に対するシンパシーを示し、抜本的で実効性のある地位協定の運用改善を声高に求めるくらいなことをした方がよさそうです。今回の米軍の対応を見ていると、可能性もありそうに見えます。』
強姦事件は強姦事件であって、それ以上の出来事でも、それ以下の出来事でもない。だから多くの人は強姦事件は強姦事件として処理すればいい。処理できないのでれば、それは問題だが、そういう状態にあるのなら、それを改善すればいいと思うだろう。だから、本土のメディアが、今回の強姦事件に対して、何らかのキャンペーンを張らなくても不思議なことではない。しかし、そうであることを不思議だとする人がいるようであり、それは沖縄人への共感性の無さから来るものらしい。
西銘順治元沖縄県知事は、沖縄の心を、ヤマトンチュウ(大和人)になりたくて、なり切れない心と表現したらしい。そう言い切るぐらいだから、ヤマトンチュウ(大和人)という対象を明確に把握しているのだろうと思うかも知れない。しかし、沖縄において、いわば日本人論的なヤマトンチュウ(大和人)の研究書は一冊もない。もしかするとあるかも知れないが、世間に知られているような著書は一冊もない。まて、ヤマトンチュウ(大和人)通なる有識者や知識人、文化人などもいない。
従って、沖縄の心をもった西銘順治元沖縄県知事も、またヤマトンチュウ(大和人)なる対象を正確に把握はしていなかったろう。そうした霧や靄を相手に、一方に沖縄の心を置いていたことになる。すると沖縄の心なるものも、やはり霧や靄と同じで、誰もがそれを手に取るようにわかるといったものではない。一体、沖縄の心とはどういうものなのだろう。
心とは行動原理(本能+思考)のことである。確かに、沖縄人とそれ以外のヤマトンチュウ(大和人)とは行動原理は違うところはあるだろう。しかし、沖縄人はヤマトンチュウ(大和人)と言語と宗教は同じである。従って、本能+思考(心)において、差はない。すると、宗教と言語における行動原理の上層部の方に違いがあるのだろう。それは習俗や風俗、行事である。それをヤマトンチュウ(大和人)と一括りすることには無理がある。無理を承知でいえば、沖縄人はヤマトンチュウの習俗や風俗、行事に情緒的反発を持っている。その種の反発は日本全国、どの地方にもある地方、特に東京などに持つようだが、それを行動原理(心)の違いとまでは言い難い。従って西銘順治元沖縄県知事の『沖縄の心とを、ヤマトンチュウ(大和人)になりたくて、なり切れない心』とは、本土の習俗や風俗、行事に強い情緒的反発を感じ、それを修正し辛い性格を有した行動原理(心)としていいだろうと思う。
またオスプレイの配備はアメリカの世界戦略や経済的理由などのよるものであっても、尖閣諸島や沖縄防衛のためではない。その論法は沖縄人などを説得するための政府の創作である。否、正確にいえば創作ではない。日本の憲法下では、集団防衛は否定されているから、アメリカの世界戦略や経済的理由ためにオスプレイを配備するなどとは言い難い。その配備はあくまで防衛のためでなくてはならない。だから、そう説明する。それは事実ではないが真実であるから、必ずしも政府が嘘をついていることにはならない。
一方で、本土の人の沖縄人への共感性の無さを憂い、一方で真実を持ち出してオスプレイの配備に支障が生じないかを憂う。これがひとりの人間に共存していることは、面白い人格だなと思う。