以下、「森功のブログ」より
週刊朝日でノンフィクション作家の佐野眞一さんが始めた橋下さんの連載を巡り、週刊朝日側がいともあっさり謝罪をしたのは報道されている通りです。この件について、小生の意見を、とのお声がありましたので、考えてみました。正直いって、週刊朝日があれほど簡単に誤るとは予想外でした。前の拙ブログで今度の連載が過去の記事と大差ないとは書きましたけど、それは記事中の事実関係のことです。問題はくだんの記事内容や描き方が橋下さんの公人としての政治活動と係わりがあるかどうか、という点でしょう。むろん政治活動や公人として言動にかかわるというのが大前提で、野放図に出自や血脈を暴露していいわけはありません。しかし、自らの出自に関して、被差別部落の出身だと橋下さんご自身が選挙活動の中でも公言しています。選挙で言っておきながら、朝日側に対し、被差別部落を報じていいのか、と攻撃するのは矛盾しているように思えます。公人としてのあり方に触れていない点で、今度の記事は配慮が足りなかったといえるかもしれません。が、そうした説明もなく単に謝罪というのも、どうでしょうか。双方の対応に違和感を覚えてしまいます。
橋下市長が選挙中に自らの出自を言ったのかどうかは知らない。仮に言ったとして、それは「私の出身地は」とする程度の意味だろう。一方、朝日側が橋本氏の出自を問題にしたのは「彼の出身地はどこだ」の意味ではない。この違いに、森功は気づいているのだろうか?
「週刊朝日」が橋下徹大阪市長の出自を巡る連載記事の打ち切りを決めたことを受け、橋下氏は20日、記者団に対し、「もう取材拒否の話ではない」などと述べ、朝日新聞社への取材拒否を解除する考えを示した。橋下氏は同日、自身のツイッターに「取材拒否問題はノーサイドだが、どこに問題があったのか。次号で明らかにすることを期待する」と書き込んだ。
朝日側の編集方針の「どこに問題があったのか」に敢えて応えれば、彼らがマキャヴェリの、極めて当たり前の教訓を知らなかったからだと言える。マキャヴェリは『人はその出生によって差別を加えるべきではないが、それ以上に年齢によって制限を加えてはならない』としている。マキャヴェリの生きたルネサンス末期は、忠誠封建社会の根強い老人支配と家柄の世界をやっと、ほんの少し打破したと思ったら、百年ぐらいでまた戻ってしまった時だから、こうした教訓を残したのだろう。それへの実社会への応用を考えなければならないのだが、朝日側は意図的にその愚を行ったということ、それが今回の騒動の原因だろう。