米海軍兵2人が沖縄県で集団強姦致傷容疑で逮捕された事件を受け、玄葉外相は16日夜(日本時間17日午前)、外遊先のパリで記者団に対し、米国に厳格な対応を求める考えを表明した。玄葉氏は「絶対にあってはならない事件だ。綱紀粛正や再発防止といった言葉では片付けられない。もっと抜本的な対応策を考える必要がある」と語った。
政府は17日、民主党の沖縄政策プロジェクトチームなどの合同会議で、再発防止策として、米軍と日本双方の関係者で対応策を協議する機関を設置すると報告した。
沖縄県の仲井真弘多ひろかず知事は斎藤勁官房副長官やルース駐日米大使らと会談し、再発防止に向けた米軍の綱紀粛正徹底などを強く求めた。仲井真氏は首相官邸で記者団に「沖縄の人の心が離れてしまえば、(沖縄の米軍)基地は成り立たない」と述べ、米軍人らの法的地位などを規定した日米地位協定の見直しを訴えた。
◆琉球新報社説 米兵集団女性暴行/卑劣極まりない蛮行 安保を根本から見直せ
被害者女性の尊厳を踏みにじった米兵の野蛮な行為に強い憤りを覚える。凶悪犯罪の再発を防げなかった日米両政府の無策と責任も、県民とともに厳しく糾弾したい。
県警は16日、県内の20代女性への集団女性暴行致傷容疑で米海軍上等水兵(23)と、同三等兵曹(23)を逮捕した。容疑が固まれば速やかに起訴し、日本の裁判で厳正に裁くべきだ。
米軍は事件のたびに綱紀粛正や兵員教育による再発防止を約束するが、何が変わったというのか。現状は基地閉鎖なくして米兵犯罪の根絶は不可能だと、米軍自らが自白しているようなものだ。
女性は安心して道を歩けない。米兵は沖縄を無法地帯と考えているのか―。県婦人連合会の平良菊会長はこんな疑問を抱きつつ「危険なオスプレイが縦横無尽に飛んで、危険な米兵が地上にうようよしているのが今の沖縄か。人権蹂躙も甚だしい」と述べた。同感だ。
ことし8月にも那覇市で女性への強制わいせつ致傷容疑で米海兵隊員が逮捕された。復帰後の米軍関係の刑法犯は5747件(2011年12月末現在)に上る。米国はこうした現状を恥じるべきだ。
在日米軍には日米安保条約に基づき「日本防衛」の役割がある。しかし県民には苦痛をもたらす暴力組織としての存在感が大きい。
日米安保体制を容認する保守系首長も、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを強行配備した日米両政府に抗議し、万が一墜落事故が起きた場合には「全基地閉鎖」要求が強まると警告する。
両政府は在沖基地が人権を脅かし、地域振興を阻害している現実も直視して、普天間飛行場閉鎖と在沖海兵隊撤退を含め、米軍駐留の根本的見直しを進めるべきだ。
04年10月21日付紙面で、わたしたちは「沖縄を取引材料にするな」との社説を掲げた。
大野功統防衛庁長官(当時)が米軍の東アジア10万人体制を見直すため、1996年の橋本龍太郎―クリントン両首脳による日米安保共同宣言の見直しを提起し、在日米軍再編協議を本格化させた頃だ。
「1972年の本土復帰に際して、当時のニクソン米大統領は佐藤栄作首相が求める『核抜き本土並み返還』を受け入れる代わりに、自らの公約である日本の繊維業者の輸出削減問題で首相に譲歩を求め成功した。いわゆる『縄と糸』の取引だ。96年の日米安保共同宣言の際には、橋本首相が普天間飛行場返還合意と引き換えに、極東有事に米軍の後方支援を積極的に行えるよう『日米防衛協力のための指針』(ガイドライン)の見直しを受け入れた」と。
それは政府が「沖縄の負担軽減」を大義名分に米軍に譲歩する状況が、復帰時や安保共同宣言当時の日米交渉の構図と酷似していることを指摘したものだ。
米国は実を取ったが、沖縄住民は「核抜き本土並み返還」も「普天間飛行場返還」も手に入れていない。今また、米国は“招かざるオスプレイ”を県民に押しつけながら、植民地政策と見まがう基地の強化、固定化を推し進めている。
沖縄国際大の佐藤学教授は、今回の女性暴行事件について「沖縄が自由に使える土地という認識が復帰から40年たっても変わっていない。その認識の延長線上にこういう犯罪がある」と指摘し、仲井真知事に対し訪米要請で「沖縄の人権が、国民としての権利がどれほど踏みにじられているのかを直接伝えるべきだ」と注文している。
米国は沖縄の施政権こそ日本に返還したが、復帰後も日米地位協定に基づき「基地の自由使用」の権利や米軍の特権的地位を温存した。こうした対米追従の不平等協定は改めるべきだ。さもなくば県民の人権を踏みにじる日米両政府の「構造的差別」も続くだろう。
沖縄を踏み台とする日米の理不尽な政策について、県民を挙げて国際社会へ告発する必要がある。
◆しんぶん赤旗 主張 米兵の暴行事件 基地あるがゆえの犯罪許さず
起きてはならない、あってはならない犯罪がまた起きました。沖縄本島中部での、米兵による女性への暴行事件です。
女性への性的暴行は、女性の人権を侵害する重大な犯罪です。しかも米兵が来日し一時滞在した沖縄で女性を襲い暴行するなどというのは、日本でなら沖縄でなら何をやっても許されるというに等しい、言語道断な行為です。今回の暴行事件は、繰り返されている米兵犯罪の氷山の一角です。基地あるがゆえの犯罪を、絶対に許すわけにはいきません。
事件は16日未明に起きました。アメリカ本土の基地に所属する米海軍の3等兵曹と上等兵の容疑者が、沖縄本島中部の路上で帰宅途中の女性を襲い、性的暴行を加えたうえ、首にケガをさせたというものです。女性が容疑者の顔を覚えていたため警察に緊急逮捕されました。
容疑者の米兵は所属するアメリカ本土の基地から神奈川県の厚木基地を経て沖縄の嘉手納基地に来ており、暴行事件は帰国する日の朝だったといいます。朝早くで、しかも2人は酒を飲んでいたといわれ、公務中などという言い訳はまったく成り立たちません。日本の法律に照らして、きびしく処罰されるのは当然です。
事件をうけ、仲井真弘多沖縄県知事は日米両政府にきびしい対応を申し入れました。野田佳彦首相や玄葉光一郎外相、森本敏防衛相らも「あってはならない事だ」と発言しています。その言葉が本当なら、形ばかりの綱紀粛正にとどまらない対策を示すべきです。
米兵による暴行や強盗、殺人などの犯罪は、沖縄をはじめ全国で繰り返されています。日本がアジア・太平洋戦争に敗れアメリカなどに占領されてから70年近くたつのに、日米安保条約にもとづいていまだに全国に米軍基地が置かれ、沖縄や横須賀(神奈川県)、佐世保(長崎県)など基地周辺では米兵がわが物顔で歩き回っている現実は、独立国ではとても考えられない異常このうえないものです。
とくに沖縄は、戦争中に不当に奪った土地に基地がつくられ、「銃剣とブルドーザー」で拡大して、全国の米軍専用基地の74%が集中します。嘉手納基地は極東最大の米空軍基地としてかつてはベトナム侵略戦争などの出撃基地とされ、沖縄の海兵隊は世界で唯一海外に基地を置く「殴り込み」部隊です。1995年には米海兵隊員による少女暴行事件が発生し、島ぐるみの抗議行動が繰り広げられました。繰り返される犯罪は、米軍がいまだに沖縄を「植民地」扱いしていることを示すものです。
日米安保条約や在日米軍についての地位協定で、米軍は日本国中どこでも基地を置くことが認められ、米兵が事件を起こしても「公務中」などの理由で裁判にもかけられない特権が犯罪を激化させているといわれます。県民の反対を踏みにじり米海兵隊の新型輸送機オスプレイの配備が押し付けられる根本にも安保があります。
これまでも米兵の犯罪が起きるたび、日米両政府は地位協定の「運用改善」などでお茶をにごしてきました。これでは基地あるがゆえの犯罪はなくなりません。安保条約を廃棄し、基地そのものをなくす方向に踏み出すべきです。
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沖縄人が事件を事件として処理できるようになるのはいつのことだろうか。強姦事件は私的犯罪だが、沖縄では、それを組織犯罪であるかのように語っている。強姦事件は組織犯罪であるという認識に立てば「米軍のいう綱紀粛正は怪しい」ということになるのだろう。暴力団の構成員が犯罪を起こした場合、以前は警察に対し暴力団が「下の者には十分言っておく」というやりとりがあった。強姦=組織犯罪論者にとっては、その暴力団と警察との関係が、そのまま政府・米軍・政治家の関係であり、暴力団=米軍そのものを無くさない限り問題は解決しないとなるのは当然なことだろう。
こうした意識は『米軍は事件のたびに綱紀粛正や兵員教育による再発防止を約束するが、何が変わったというのか。現状は基地閉鎖なくして米兵犯罪の根絶は不可能だと、米軍自らが自白しているようなものだ。』『在日米軍には日米安保条約に基づき「日本防衛」の役割がある。しかし県民には苦痛をもたらす暴力組織としての存在感が大きい。』とする琉球新報の社説や『これまでも米兵の犯罪が起きるたび、日米両政府は地位協定の「運用改善」などでお茶をにごしてきました。これでは基地あるがゆえの犯罪はなくなりません。安保条約を廃棄し、基地そのものをなくす方向に踏み出すべきです。』とするしんぶん赤旗主張に現れている。
地位協定を念頭に「やり逃げ」を計画することは可能だろう。それに対して知事は「米軍人らの法的地位などを規定した日米地位協定の見直し」を訴える。言い換えれば、米軍人を法的身分は日本人と同じとすれば、事件を減らせるとしているのだろう。特に性的犯罪は今では病気の観点から語られることが多い。性的犯罪は治りにくい病気であり、法律でその病気自体を減少させることができるのだろうか? 一方、玄葉外相は「綱紀粛正や再発防止といった言葉では片付けられない。もっと抜本的な対応策を考える必要がある」としている。そうした対応策ですぐに思い浮かぶのは「接触禁止命令」である。米軍人は、その任務以外に沖縄人に接触してはならないという法律を制定し、基地外への外出を規制することである。
米兵が沖縄人に接触することがなければ、沖縄の女性は「安心して道を歩ける」ようになる。琉球新報社説の『女性は安心して道を歩けない。米兵は沖縄を無法地帯と考えているのか―。県婦人連合会の平良菊会長はこんな疑問を抱きつつ「危険なオスプレイが縦横無尽に飛んで、危険な米兵が地上にうようよしているのが今の沖縄か。人権蹂躙も甚だしい」と述べた。同感だ。』『ことし8月にも那覇市で女性への強制わいせつ致傷容疑で米海兵隊員が逮捕された。復帰後の米軍関係の刑法犯は5747件(2011年12月末現在)に上る。米国はこうした現状を恥じるべきだ。』とする不安もあり程度解消するだろう。
アメリカの組織はアメリカ人の精神構造に基づいて構築されている。そのため、アメリカ国内での犯罪率と、国内の組織の構成員による犯罪率とは等しい関係になる。米軍の沖縄における犯罪率も、アメリカ本国における犯罪率を以て評価すべきでだろう。そのうえで、もし、アメリカ本国における犯罪率を、米軍という組織の構成員が起こす犯罪率が上回った場合、彼らの基準で考えることかも知れない。私たち日本人はアメリカ人と同一の精神構造を有していないので、こちらの基準で相手に反省を求めることはでいない。ましてや恥じるべきだとするのは人権無視の暴言以外の何物でもない。
私はドキュメンタリーが好きである。個人の体験談も書籍、テレビ、ラジオを問わず、他人より多く見聞きしていると自負している。沖縄戦も然りである。同時に、個人の体験は共有することはできないが、偏見は共有することができるともしている。だから、沖縄戦や復帰前の体験談などを見聞きしても、その体験から生じた偏見に対しては人一倍注意を怠ったことはない。
異常な体験のある人は、必ず偏見を生じさせる。その偏見が抜けずに困る状態を、私たちは病気と呼んでいる。もちろん、偏見を生じた人のすべてが困った状態になっるのではない。体験と偏見とは分かち難いので、体験者自身、自らが偏見を持っているなどとは夢にも思わないことが普通である。
私たちは物事を見ているようで、実際には見てはいない。しかし、記憶として残る。これは見ているから記憶として残るのではなく、見るという行為前後に判断という機能が働くから記憶に残る。ある体験によって偏見が生じるとは、その体験の前後に判断が働いていないからである。通常、カウンセリングとは、偏見が生じた体験のとき、働かなかった判断を、その人のもつ偏りにあわせてその人に行わせていく作業になる。しかし、この作業がまったく通用しない人もいる。その症状がトラウマである。このトラウマは体験が直接脳幹に焼き付いているといった感じの症状だから、その映像と一致した映像に接すると、いわゆるフラッシュバックを起こし、自己制御不能の状態に陥ってしまう。
こうした体験から生じた偏見なら誰でも共有することができるし、教育の場でも、そうした共有をしてきたのが沖縄社会である。いわば偏見に満ちた社会であり、言い換えれば異常な社会だといっていい。だから、そこから発せられる怒りなるものが、沖縄県生まれで、沖縄在住者の私には、何一つ伝わってこない。しかし、そうではなくて、『沖縄国際大の佐藤学教授は、今回の女性暴行事件について「沖縄が自由に使える土地という認識が復帰から40年たっても変わっていない。その認識の延長線上にこういう犯罪がある」と指摘し、仲井真知事に対し訪米要請で「沖縄の人権が、国民としての権利がどれほど踏みにじられているのかを直接伝えるべきだ」と注文している。』『米国は沖縄の施政権こそ日本に返還したが、復帰後も日米地位協定に基づき「基地の自由使用」の権利や米軍の特権的地位を温存した。こうした対米追従の不平等協定は改めるべきだ。さもなくば県民の人権を踏みにじる日米両政府の「構造的差別」も続くだろう。沖縄を踏み台とする日米の理不尽な政策について、県民を挙げて国際社会へ告発する必要がある。』なのだと琉球新報社説はいう。
その暁の前に、国連は沖縄人を異民族としているのだから、沖縄の独立を促し、独立国家として国際社会にデビューしてもらう方が適切だろう。国の専権事項に逆らい、国の防衛を脅かすのであれば、それを正統性のある根拠をもって切り捨てるのが本筋だからである。
世界のどの民族でも、その居住地に他民族が住むことは受け入れ難いものである。しかし、沖縄県民は必ずしもそうではないらしい。一方では、「美しい、清らか」などの言葉で自らを飾り「沖縄人の心は美しく、清らかであり、公平中立で、世界一他民族に寛容である」などと偽り、しかし、事が起きると「さすがに寛容な沖縄人にも我慢の限度がある」として、只管全面否定の方向へと暴走する。
居住地における他民族の存在は嫌だと素直に言えるのなら、それを地道に実行していくだけで、一方で寛容、一方で暴走などといった、見ていて痛々しいことを起こさないだろう。