アメリカの伝統のひとつに、何時の時でも「貧しき者、飢えた者、家なき者、抑圧され差別された者」への救済者(キリスト)が出現するという現象がある。多くのキリストたちは、それを救済を真面目に実行している。あるキリストが、彼の宗団を伴って、国内のある地に移住したいとなった場合、正副大統領の添書を得て、それが法的に認められる。その時点で、そのキリストは「富める地の抑圧された奴隷を、荒野の自由へと導き出す」というカリスマ的指導者(モーセ)となる。そして、そのモーセは『出エジプト』(脱出=エクソダス)となる。ここまでくれば、そのキリスト&モーセは、政治的指導者である、法の授与者で執行者であり、人間の良心にまで介入する宗教的指導者を一身に兼ねる超人になってしまう。この場合、本人にモーセのような明確な契約意識があり、神との契約とそれに基づく各人との契約を絶対視し、かつ神聖視ならば別だが、そうでなければ、そのモーセ自身が神になる。だが契約社会を創るなら、自己が拒否したアメリカ的なものへと戻ってします。この、組織化された社会からの脱出と、この脱出者を組織化するという矛盾及びその克服は、モーセ以来、西欧のさまざまな面に出てきた問題であり、同時に、その問題がアメリカという社会を創りだした。この意味で、彼らにとって脱出(エクソダス)は正常な伝統になる。
その伝統と全く無縁なのが日本社会である。日本人は社会を西欧人のように人工的組織として捉えようとはせず、自然と生物との関係と同じものとして捉える。社会契約説では、自然生成説に基づく社会観だが、この社会観からは脱出(エクソダス)という発想は生じようがない。
1918年(大正7年)理想郷を目指して、武者小路実篤とその同志たちは、宮崎県児湯郡木城町に開村した。それは「新しき村」運動と称されている。今でも「新しき村」運動は、ロハスだの、エコライフだの、手を変え品を変え盛んなようである。もちろん、これは脱出(エクソダス)ではない。では、オウム真理教の場合はぢうだろう。
土曜日、日曜日と未解決事件 File.02 オウム真理教「オウム真理教 17年目の真実」「オウムVS警察 知られざる攻防」を見た。今までになかったオウムの描かれ方なので面白かった。その番組内での麻原彰晃の言動から、彼はアメリカ被れだったのだろう思う。彼は、当初から、自らを救済者(キリスト)とし、次にモーセとしたのだろう。しかし、日本社会はアメリカ社会とシステムが違う。アメリカのように、ある宗団が、現実社会と並列・共存し得ることは、日本ではできないのである。はじめから並列・共存し得ないことは麻原も知っていたのではないだろうか。この場合の知っていたとは、上記のように知識として知っていたのか、センス(感覚)で知っていたのか、あるいは戦後のアメリカ文化(思想)を無批判に受け入れた結果、そうした人間が生まれたのか、そのどれかはわからない。
並列・共存し得ず、しかもアメリカ的なやり方を貫こうとすれば、一方が一方を吸収するしかない。麻原の場合、吸収とは、社会をオウムに取り込むこととなったのだろう。しかし、彼は、その取り込みも考えていなかったようだ。並列・共存し得ないのら、オウムが日本社会にとって代わるべきだとしていたのだろう。だとすれあはじめから救済=武装化であっても不思議ではない。といって救済=武装化が問題だとは思わない。重要なのは、なぜ欧米の正常な伝統である「脱出(エクソダス)」という発想が日本社会で日本人に生じたかということだろう。彼らにとって正常であっても、私たち日本人にとっては異常であるに過ぎない伝統、あるいは無批判に受容すると思いもよらない結果を招く思想である。
麻原彰晃(オウム真理教)とは、欧米にとって正常な伝統である「脱出(エクソダス)」を、無批判に受容ないしは、すでに受容されていた思想を感覚的に体得し、それを自己の思想として、「脱出(エクソダス)」の伝統のない日本社会において実行に移した。この分析が正しければ、同じことはカンボジアでも起こった。ポル・ポト派は、普遍主義のひとつである社会主義を、無批判に受容し、その伝統にないカンボジア社会において、大量殺害という形で実行した。今のカンボジアは、ポル・ポト時代に否定・排除された伝統的思想に基づく法律の制定を急いでいる。私が、オウム真理教(麻原彰晃)の一連の言動によって知ったのも、欧米文化を無批判に受容できてしまう土壌ができてしまっているということと、それに対して日本人の伝統的思想が何らの歯止めにもならなかったということである。
菊地直子容疑者が逮捕された。”かくれんぼ”でもすぐに見つかると悔しいとう思いになるが、長時間見つけてもらえず、日も暮れ月も出た頃に見つけてもらうとホッとするものである。同じことは逃亡者にもいえだろう。「今まで自分の身分を隠して逃げてきた。もう逃げなくてよいのでほっとしている」と捜査員に安堵の言葉を漏らしたという。
菊地直子容疑者(40)は3日夜、警視庁に逮捕された際、身元を確認する書類を作成した捜査員に安堵の言葉を漏らした。「今まで自分の身分を隠して逃げてきた。もう逃げなくてよいのでほっとしている」。
1995年の地下鉄サリン事件以降、約17年間逃げ続けたことについて、「たくさんの人に迷惑を掛けてしまい、申し訳ない」と謝罪の言葉を口にしたという。
捜査当局は、菊地容疑者が96年11月まで滞在していた埼玉県所沢市のマンションからノートを押収。同容疑者は「出たら親に迷惑がかかる」「実家に電話したいけれどできない」などと逃亡生活についての複雑な胸中をつづっていた。
地下鉄サリン事件で殺人容疑などで特別手配されていたオウム真理教の菊地直子容疑者(40)が3日、相模原市内で身柄を確保され、警視庁に逮捕された。
情報が錯綜する中、同市内で確保されたという情報に頼りながら、同市内の一部を管轄する津久井署員らは対応に追われた。
3日午後10時過ぎ、相模原市緑区の神奈川県警津久井署では、当直体制中の署員らがテレビにくぎ付けとなって情報収集にあたった。
菊地容疑者の身柄が確保されたという現場に同署員も向かったが、確たる情報はなく、ある署員は「何も情報がなくてわからない」と困惑した様子だった。
菊地容疑者の身柄が確保されたとの情報が流れた現場近くに住む主婦(59)は、「まさか近くに住んでいるなんて考えたこともなかった。本当に信じられない」と話していた。