同じ宜野湾市に住みながら、米軍普天間飛行場の騒音(?)や飛行場から離発着する航空機による騒音で、訴訟にまで発展する人間もいれば、声を上げられずに苦しんでいる住民もいるらしい。私のように無関心なのはどのぐらいいるのだろう。
この手の騒音訴訟が面白くないのは明確な基準による裁判所の判断が示されるわけではないからである。簡単にいえば交通違反のように40K超過は違反であれば、そくその法律が適用されるものではないからである。騒音訴訟には三つの項目「先天性(先住権)・地域性・合理性」に基づく検証も必要とする。その点に関する限り、裁判所は沖縄人に好意的偏見を持っている。
⇒普天間騒音被害、住民3129人が第2次提訴 論点は航空機騒音の禁止と損害賠償
好意的偏見といったのは、この世に公平中立の人間はいないという意味でである。いれば、その人は神でしかない。同時に悪魔であり、赤ん坊であるだろう。組織も同じである。裁判官が好意的偏見を持っているとは、裁判官は日本の伝統的思想に基づいて、普天間爆音訴訟を判断しているという意味である。私が興味があるのは、その伝統的思想、その系譜ないしは思想的転換(回心)の方で、すでに、普天間爆音訴訟における裁判官の判断がどういった思想に基づいたものかではないのである。
もちろん米軍航空機の通過における住民の激怒は、私の理解を超えている。多分、センス(感覚)が違うのだろう。私は音声には、屋内にいて聞こえてくる人の声は、それが蚊の羽音のレベルであっても神経を逆撫でするものだが、彼ら住民はどどういったレベルの音声でも平然としている。センスが違うわけだが、そのセンスに自信を持ったのはフランス映画を見て以降だった。あるフランス女性がパリから田舎にやってくる。その女性は「都会の雑踏から解放された」と思った瞬間「人の声」に悩まされるというシーンがある。そして、そのパリジェンヌ曰く「田舎の人は人工音に怯え、都会の人は人の声に怯える」と・・・その通りなのではないだろうか。
もう10年以上も前に見た映画だが、それを見てからは、非常に楽な気持で、騒音騒動を眺める日々が続いている。
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米軍普天間飛行場の騒音軽減や普天間爆音訴訟に参加していない住民への被害回復などを国に求める米軍普天間基地騒音被害原告団(屋嘉比康太郎団長)が27日、結成された。原告団には同日までに市民1720人が参加。弁護団への委任手続きを経て7月にも提訴する。同日、宜野湾市内で結成総会が開かれ、提訴に向けて準備を進めてきた米軍普天間基地騒音被害者宜野湾市有志の会は同日で解散した。
結成された原告団は、
(1)米軍普天間飛行場の固定化を許さない
(2)同飛行場の移設、騒音軽減を求め騒音被害の回復を図る
(3)政治的に中立の立場に徹する
などを規約に掲げる。
27日に宜野湾市の真栄原公民館で開かれた結成総会で屋嘉比団長は「爆音訴訟団に参加せず、声を上げられずに苦しんでいる住民を助けることが第一の目標だ。1日も早い移設、騒音軽減を求めていきたい」と訴えた。
原告団結成の母体となった有志の会は2010年2月に元宜野湾市長の故安次富盛信さんらを中心に発足。普天間爆音訴訟団に参加していない住民の救済などを求め防衛省などと折衝を続けてきたが、昨年夏に提訴に踏み切る方針へ転換した。
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