「もう耐えられない」 首都圏のスポーツ用品会社で働いていた男性(28)は昨年夏、悩んだ末に退職した。
会社は業績好調で、残業は月200時間にのぼった。だが社長は、「商品がいいから売れているんだ」と社員をまったく評価しない。同僚の仕事が終わるまで帰れず、終電までに退社できない日々が続いた。
仕方なく、自宅まで片道20キロを1時間かけて自転車で通った。静まりかえった街中を飛ばし、翌朝また、眠い目をこすりながら家を出て、渋滞を避けて河川敷を会社まで走る。若いとはいえ、さすがにきつい。「できることなら続けたかった。でも、我慢できなかった」。正社員の職をやむなく捨てた。
失意の中で、将来への希望を見いだしたのが、職を失った人に新たな技能を教える「求職者支援訓練」だった。厚生労働省の認定を受けた資格学校などが「教室」を開き、経理の実務やパソコン技能などを教える「職業訓練」だ。職を失った人は無料で受講できる。講師をしている知人に教室のことを教えられ、昨年暮れから通いはじめた。
たくさんの教室の中から選んだのは、経理や人事、労務といった総務系の専門知識を学ぶコースだった。営業一筋だった反省から、「仕事の幅を広げたい」と思ったからだ。
教室では午前9時から午後2時半まで、みっちり教えてくれた。受講者の3分の1ほどは、失職した40〜50代だった。「いろいろな業種の人と知り合い、刺激になった。先生の面倒見もよくて、就職活動の意欲がわいた」。3カ月間の「研修」を終え、いま、会社訪問を続けている。
景気は上向きつつあるが、失業率はまだ4%前後で高止まりし、失業者数は250万人を超える。若者を酷使して捨てる「ブラック企業」や、社員にろくな仕事を与えず退職を迫る大企業の「追い出し部屋」で、働けるのに会社を辞める人も増えている。転職をめざして、スキルアップの機会を望む人は多い。
そうした人のための「求職者支援訓練」なのに、実態はかけ離れている。スポーツ用品会社を辞めた男性のような例は多くない。
ある資格学校が運営する教室は、東京都内の最寄り駅から歩いて約15分の雑居ビルにあった。エレベーターを降りて廊下を歩くと、ドアに「求職者支援訓練 ○○基礎科」と書かれた紙がはってある。
授業が始まっても、教室はがらんとしている。30人入れる広さなのに、いるのはたった2人だけだ。「生徒が集まらずに赤字なので厚労省の関係団体に相談すると、『教材を安くしてはどうか』と言われた」と担当者は話す。少なくなった生徒を取り合い、教材を無料にするところが増えているという。
求職者支援訓練の受講者は2012年度、24万人の想定に対して10万人足らずしか集まらなかった。「受講できる条件が厳しく、使いづらいからだ」と関係者は指摘する。
受講者は、世帯の年収が300万円以下などの条件にあてはまれば、月10万円の「生活費(手当)」が出る。ところが厚労省の規定で、少しの遅刻や早退でも「欠席」とみなされ、病気などの「やむを得ない理由」でなければ手当はでない。3〜6カ月の訓練期間中に「認められない欠席」が3回あると、過去に受け取った手当も返さなければならない。
都内の教室でパソコン技能を教える講師は「教室に通いたい人は多いのに、厳しすぎて受講を尻込みしている」と批判する。
実は、雇用関連の制度の利用が少ないのは珍しいことではない。
菅政権の2010年11月の補正予算で、厚労省は「成長分野等人材育成支援事業」のために500億円をつぎ込んだ。医療や環境などの事業で失業者を雇ったり、社内の配置転換をしたりして職業訓練をすると、その費用を1人当たり20万円まで支給する。
ところが、今年3月までの支給実績は計約27億円にとどまる。13年度は約80億円を見込むが、これを足しても500億円の4分の1にも満たない。
お金が残っても、国に返すわけではない。新たな事業に「転用」されるのだ。
そのひとつが今年1月、安倍政権の「日本経済再生」の補正予算の一環として打ち出された「日本再生人材育成支援事業」だ。
六つあるコースのうち、会社都合の退職者を正社員として雇い、職業訓練をすると費用の一部を助成するコースは、たったの2件、計2人分の利用しかない。
だが厚労省は7月、申請の受け付けを止めた。「他のコースが人気でお金を使い切る見通しになった」というが、具体的な額は公表しない。職業安定局雇用政策課は「『利用見込み』で募集をやめた段階なので答えられない」と説明する。
さらに、この事業とは別の「若者チャレンジ奨励金」にも、約60億円を「転用」していた。1月の補正予算で認められたのは600億円だったが、それでは厚労省が想定した事業費に足りず、「財源」の一つにした。
転用がわかった「日本再生人材育成支援事業」などは、「緊急人材育成・就職支援基金」から事業費が出ている。この基金はリーマン・ショック後の2009年、麻生政権の補正予算から出た7千億円でつくられた。「求職者支援訓練」のもとになった職業訓練事業が目玉だった。
運営しているのは、厚労省の天下り先になっている「中央職業能力開発協会」だ。もともとは技能工の能力検定をする団体だったが、基金の設立とともに突然、失業者のための職業訓練の窓口になった。
その後、経済対策で補正予算が組まれるたびに新たな資金が入り、事業が入れ替わった。景気を上向かせるための経済対策では、職を失った人を支える事業や、働く人を増やす事業が目玉になるからだ。
こうした「錬金術」は、基金が底をつくと使いにくくなるので、事業の利用者が少ないのはむしろ好都合といえる。基金は毎年、ほぼ使い切るという見込みを公表しているが、いつも年度末には数千億円が残る。
「経済対策のたびに政府から目新しい事業を求められる。そのためにはある程度の資金が手元に欲しい。厚労省は基金を都合のよい『サイフ』として使っている」と、ある官僚は語る。
こうした指摘に対して、職業安定局雇用政策課は「経済社会情勢の急変に対応するため、基金も活用して施策を実施してきた」としている。
だが、職を失った人に回るお金は少なく、基金を運営するための人件費などに年間10億円以上が使われている。「人減らし社会」の安全網は役に立たず、霞が関の組織だけが焼け太りしていく。