水戸光圀が編纂を命じた大日本史は、中国の歴史記述の方法(編年体・紀伝体)で作成された。中国には幕府がないので、彼らの歴史記述の方法を用いては幕府をどう位置付けていいのかわからない。紀伝体では、まず皇帝が記載され、次に臣下が記載される。その臣下は大きく忠臣と叛臣に分けられ、それぞれがまた細かく分けられ記載されていく。皇帝は、日本では天皇をあてればよかったが、幕府をどう位置付けていいのかわからない。一体、幕府は天皇の臣下なのか? 臣下であるのになぜ統治の権限を持つに至っているのか? 忠臣なのか叛臣なのか、誰にもわからない。喧々囂々の議論が行われたらしいが、結局、答えがでてこない。
結局、大日本史とはそれだけの書物なのだが、その編纂過程において、尊王や幕府否定という考え方が生まれた。水戸光圀自身、彼の気質や家庭環境なども影響はしたかも知れないが、尊王や幕府否定は編纂の主宰者としてのものだろう。この時代に明治維新は準備された。また光圀は水戸藩内において廃仏毀釈を行っている。
そうした光圀だから、クーデターによって水戸藩から将軍をといったような動機で、赤穂浪士を支援したりはしないだろう。