支那の広西省玉林市で「犬食い祭り」が行われる。問題は狗肉を食う事ではなく食材にする為に殺す方法だ。生きたまま火で炙ったり、生きたまま皮を剥がす。これは、野蛮人が行う蛮行以外の何物でも無い。
堕落した別の社会を見たい方は、YouTubeの検索欄に"Walmart People"と入れて検索してみて下さい。
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確かに殺し方は問題になるだろう。たとえば鶏の殺し方・・・いくらこれからチキンになるんだからと、首をつかんで壁に叩きつける殺し方を見るのは不快だ。屠殺は文化だから、それに沿った殺し方をしてもらいたい。テキサス親父が言いたいのもそういったところだ。
ところで人の殺すときにも、文化的な殺し方をすれば誰も批判しない。たとえば国が行う死刑である。独裁国家など、一部の国での死刑は別として、多くの国では死刑は文化的合法的殺人として認められている。もっとも、ここ数十年、そうした国が行う殺人に対しても否定的な国が多くなった。
もうひとつ人権条約の名のもとで行う殺人がある。多くの日本人が、そのやり方でアメリカ人に殺されたようだ。その殺害方法だが、日本人の捕虜に対して「来週帰還船が来る」「いや、アメリカ側が帰還船を仕立てるらしい」などの情報を捕虜側に流す。その噂が大部分の捕虜に行き渡った段階で「あの話しは嘘だったらしい」という情報を流す。これを何度も繰り返す。希望⇒絶望⇒希望・・・というプロセスを何度も繰り返す。これだけで人は気が狂い自ら死を求める。
たとえば、子どもを誘拐された親の心情を察して欲しい。その親に対して「子どもの生存は確認された。もうすぐ解放らしい」という情報を流す。それを親が信じて安堵した段階で、今度は「子どもはすでに殺されたらしい。今、警察などが川を捜索している」などの情報を流す。当然、親は落胆する。こうした希望⇒絶望⇒希望・・・というプロセスを繰り返されると、普通の神経の持ち主は気が狂うほどの苦痛を味わってしまう。同じことは北朝鮮の拉致被害者家族にいえる。彼らに対して希望⇒絶望⇒希望・・・というプロセスに基づく情報を与えるとおかしくなってしまうだろう。
また最近、問題になっている就活自殺の構図も希望⇒絶望⇒希望・・・というプロセスになっている。生活の大半の時間を就活に拘束され、そのうえで希望(内定)⇒絶望(内定取り消し)⇒希望(内定)・・・と繰り返されると頭が変になってしまうだろう。
こうした文化的合法的な殺害が世の中には存在するのである。動物に対して野蛮な殺し方はいけないが、屠殺という文化的な殺し方はいいとすれば、人間に対しても同じことが言えるのだろうか? そうしたことまでテキサス親父は踏み込んで欲しかった。