慰霊の日に思うこと・・・いつまで滑稽なことを続けるのだろう。この日が近づくと戦争体験者なる者たちが騒ぎだす。彼らは戦争体験を語ることが平和につながるのだという。その当否正誤はともかく、戦争体験とは異常体験のことだろう。体験には偏見が分かち難くくっ付いている。これを切り離すことができない。一方、人格は万人が異なるから、ある人の体験を別の人間が共有することなどできない。しかし偏見は誰もが共有するこができる。
たとえばレイプは異常体験である。この体験は一個人のもので、誰も共有することはできない。しかし、異常体験には必ず偏見が生じるが、この偏見は誰もが共有することができる。レイプの結果、その体験者がアメリカ軍人の軍服を見るだけで恐怖を感じたとする。沖縄でだと、その軍服を見ることありふれたことなので、体験者は一歩も外出することができないこともあり得る。一方、もとから軍人嫌い、アメリカ人嫌い、軍服嫌いなどの人もいる。こうした人は、レイプという異常体験によって生じた偏見をすぐに共有することができてしまう。そうした何とか嫌いでなくても、偏見を共有した結果、何とか嫌いになってしまうこともあり得る。
レイプ体験によって生じた偏見をトラウマと呼んでいる。今の医療では、その偏見を無くすことはできない。異常体験と、それで生じた偏見とを分けることができないのである。これは判断という作用が脳内で働かないことも意味している。人は物を見る場合、判断という作用を通して記憶にする。しかし異常体験の場合、判断という作用を通さずに脳内に記憶されてしまうことがある。精神科医療においてトラウマなどの治療には。カウンセリングという判断を通じて、異常体験から生じた偏見を修正していくというやり方が用いられている。だから判断という作用を通さずに記憶されたものの治療は不可能とされているのである。
レイプ体験も戦争体験も、その体験から生じた偏見を有し、その偏見は誰もが共有することができるという点では同じである。レイプ体験では医者はその体験者の偏見を共有するということはあまりない。しかし戦争体験の場合は事情が違う。戦争体験という異常体験によって生じた偏見を社会の誰でも共有することが起きてしまうのである。それを避けるには、異常体験とそれから生じた偏見とを区別する作業がどうしても不可欠になる。
しかし沖縄県民は、今の今まで、戦争体験とそれから生じる偏見とを区別するという作業をして来なかった。優しい県民性なのだから、それができなくて不思議ではない。戦争体験者は次世代に対して、どのような偏見を伝えたいのか、そうしたドキュメンタリーは残念ながらお目にかかったことがない。その結果、沖縄社会は、戦争体験によって生じた偏見に満ちたものになった。そうした社会には、それに伴う喜劇的悲劇こそあれ、平和につながるようなものは何一つでてこないだろう。