引きこもり状態にあった人たちが、動き出そうと思ったときに、生活費や交通費程度のお金を貸し付けしてくれる自治体の支援制度がある。しかし、現実には、お金がなくて、生活の展望を描けずに絶望している人たちも少なくない。お金のなくなることは、死を見据えることになりかねない問題だ。
神奈川県に住む40代の引きこもりAさん
子どもの頃から、ずっと私は(世の中の)対象外でした。高校へ進学してしまうと義務教育ではなくなり、当時はサポートやケアがなかったんです。20代の段階で、どこに相談していいかわからず、40代になったいまもまた、公的な支援対象から外れ、最後の生活保護も受けられそうもない。常に、はじかれてきたんです。
金銭問題を常に抱えてきたんです。お金がないと、病院も相手にしてくれないし、相談もできない。病院で自立支援を受けようとしても、“うつ病じゃないから、自立支援(1割負担)は受けられない”と言われた。こうやって歪んじゃった人間なので、どこか冷めた目で見てるんです、社会を。
中学時代に発症した「神経症」で通学が困難となり、高校を1年で退学。その後、6年間引きこもった。
私が引きこもった頃はバブル期だったため、それなりに羽振りは良かったようです。経済的なサポートは、十分受けています。引きこもった最初の1年くらいは、ある病院の相談機関に通っています。しかし“この先どうしたら…”という悩みに対して、誰も導いてはくれませんでした。
自力で動こうとしては空回りの繰り返し。次第に両親からは放置状態となり、6年もの時間を棒に振った。
気がつくと、20歳になっていた。しかも、バブルの崩壊によって、家庭の経済状況が悪化。「親があてにならない」という焦りが大きくなり、何の計画性もないまま、20代に入ってからは、十数年間も、アルバイトや派遣で収入を得ていた。
ずっと金銭で縛られてきたので、いつ切られるかもわからない中、蓄えを作っておかなければいけない。その蓄えも、親に持っていかれるかもしれないと、どこかで思っていたんです。
Aさんは、回し車の中を走るハムスターのように、それでも何とか一生懸命に頑張って働いてきた。
それが車の足として誇れるのかというと、違うんですよね。結局、正社員ではない。ちゃんとした学校も出ていない。私の時代は、“それは甘えだ”“正社員になることはできただろう?”などと言われてきました。いまほど社員へのハードルは高くなかったと思います。ただ、僕はそこにも行けなかった。
結局、リーマンショック後、派遣契約の更新は終了。以来、4年余りにわたって、再び「孤立無業」の状態が続いている。
早い段階で、切られることはわかっていました。むしろ、派遣先にはすごく感謝しています。私には、一般的な就職活動の経験がありません。がむしゃらな就労を続けてきました。アルバイトは、立ち話程度の面接で採用されるようなところばかりでした。
ITバブルの頃の派遣会社は、登録さえしておけば、パソコンが苦手なAさんでも、良い仕事を斡旋してもらえたという。
もし、履歴書の経歴=学歴+正社員歴とするならば、現在の私の経歴には、25年近いブランクがあるということなのでしょう。2〜3年前、『地域若者サポートステーション』を利用したことがあります。自分が10代の頃に、こんな施設があったら…と思うと、胸が苦しくなりました。
Aさんは20代の頃、民間の引きこもり支援団体を訪ねて行ったことがあるという。Aさんは自分でアルバイトをして、自力で貯めたお金を使い、その施設に2度ほど通った。
次の面談は、施設のほうから“連絡する”と言われていたんです。それが、それっきり、連絡が来なくて…。親というスポンサーがいないので、切られたんだなと思いました。当事者の自助グループにも顔を出してみたんですけど、金銭的には困っていない人たちがやってるだけって感じで…。どこへ行っても当てはまらなくて…。
Aさんだけでなく、お金のない当事者たちに、「常にはじかれてきた」と感じさせるような世の中の構造は、これまで私たちがつくりだしてきたものだ。振り返れば、Aさん自身も「家族からの放置」による「引きこもり」が長期化。その後の悪循環で「もはや手の施しようがない状態となった」という。
私の両親は、一言でいえば幼稚な人たちでした。社会というものに対し、高をくくったようないい加減さがありました。教育にも熱心ではなく、私にとってはあてにならない身近な大人でした。父親は、決して社会的地位の高い人間ではありませんでした。性格は陰湿なのですが、極度のええ格好しいでもあったため、理想と現実が噛み合わず、常にイライラしていました。酒癖も悪く、何時間も母親に絡むさまに辟易したものです。
20代の前半頃、アルバイトにも慣れ、運転免許も取得した。正社員を目指してみようかと前向きだったそんな頃、父親が経済的に破たんした。その後、父親は、親族とのトラブル、失業、アルコール依存と転がり落ちていった。
以来、私にとって『家族』なるものは、爆弾のついた手枷足枷でしかありません。ずっと父親の死を願い続けてきましたが、70歳代のいまも健在です。共依存と思われる母親は、自身の置かれた状況から目をそらし続けています。
Aさんは08年頃、あるきっかけで、実家を出て独立した。以来、家賃の安い公共住宅を渡り歩いている。Aさんは派遣で切られたとき、すべての人間関係を遮断したという。以来4年間、人と話をしたのは数えるほど。ほとんど何もしていない。その間、蓄えだけで生活してきた。しかし、3〜4ヵ月後には、貯金が底をつく。なぜ、生活保護を申請しないのかと聞いてみた。
4年前だったら、生活保護ももう少し緩かったと思うけど。悪いタイミングのときに、その瞬間が来てしまったなと…。お金を使いきったところで、ややこしい経歴や、すべてのしがらみを断ち切ることを望んでるのです。いまはカウントダウン状態です…。
どうせケアするといっても、40歳以上や途中でこぼれ落ちた人たちは、線を引っ張られるというあきらめもあるんです。何事に対しても、そうやって考えちゃうんです。
お金がなく、生活保護も躊躇せざるを得ないような世の中で、当事者が追い込まれていく。一方で、そういうAさんの中にあるモノに、授業料を払ってでも学びたがっている人たちは、たくさんいる。