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琉球帰属問題 日本では薩摩侵攻で解決、中国では「未解決」…人民日報が専門家の論文

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 8日付の中国共産党機関紙・人民日報は、沖縄県・尖閣諸島に関し、「歴史的な懸案で未解決の琉球(沖縄)問題を再び議論できる時が来た」と主張する論文を掲載した。

 党や政府の見解を反映する同紙が、沖縄の帰属は「未解決」で、中国に領有権があると示唆したのは初めて。尖閣諸島で対立する安倍政権を揺さぶる狙いがあるとみられる。

 論文は、中国の政府系調査研究機関・中国社会科学院で中国近代史などを専門とする張海鵬研究員ら2人の連名。論文は「琉球は明清両朝の時期、中国の属国だった」とし、日本が武力で併合したと主張。日本は1895年1月に尖閣諸島を領土に編入しているが、論文は日清戦争を終結させた同年4月の下関条約の調印の際、「(敗北した)清政府に琉球を再び問題にする力はなく、台湾とその付属諸島(尖閣諸島を含む)、澎湖諸島、琉球は日本に奪い去られた」と指摘した。

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 琉球は明清両朝の時期、中国の属国だった、のではなく、明朝末期、中国の属国だった。それ以前の琉球は、島津藩とは同盟に似た関係であり、日本に属していたとみていいと思う。しかし、戦国時代に入り、琉球は島津に応答しなくなる。そして明から冊封を受けることで、琉球王の名称を得た。王=皇帝の臣下だから、この時点で琉球は中国の属国となった。もちろん朝貢は中国のみに行い、日本にはなかった。

 徳川家康が天下を統一すると、家康は貿易に乗り出す。まずスペインに代えてオランダとの貿易をはじめ、出島を開港する。そして中国との貿易を始めようとした家康は、まず、日本と朝鮮に両属していた対馬を通じ、対馬は朝鮮を通じて明との貿易をさぐる。しかし、それ以前に明の侵攻、秀吉の侵攻を受け、国内は戦場となってしまった朝鮮にとって、対馬の申し出は受け付けられるものではなかった。朝鮮は、日本とも中国とも距離をおきたかったのだろう。

 そこで家康は琉球を通じて明との貿易をさぐる。しかし、琉球は明に朝貢しており、対馬と同じではない。このとき、島津から家康に申し出はあった。琉球との関係である。島津によれば、最近の琉球は島津に応答しない。また元々琉球は島津の領土であるとの書状もいただいている。しかし、家康は島津の申し出を拒絶する。その代わりに、島津に対して、琉球に使者を送り、明との貿易の仲介役をしてもらえないか伝えてくれと頼んだ。島津は、それに従い琉球に使者を送ったが、琉球は島津の申し出を断る。これを島津は家康に報告、家康も島津の申し出を断る理由はない。ただし、中国との戦いを避けたいので迅速にとだけ伝えたらしい。

 そして、その通りに島津は琉球の侵攻に成功した。この時点で、琉球の帰属問題も解決した。これが日本人の認識だと思う。ちなみに琉球人の民族性文化性だが、薩摩に連行された琉球王一行が江戸に滞在中、これを散見した朝鮮人は「言語は同じ、文化慣習宗教は本土の真似」としている。チェンバレンに先立つこと約300年前、琉球弁はすでに日本語とされていたわけである。























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