議事進行係とは、会議において議事進行に関する動議等を提出し会議の進行を促す役職のこと。日本の国会において慣習として設けられている、通称「呼び出し」「呼び出し太郎」とも呼ばれる役職。
1894年(明治27年)の帝国議会時代に吉本栄吉議員が紛糾する国会を静めるために大声で叫んだのが始まりとされる。当時はマイクなどの音響設備のない時代であり、広い議場で全議員に響き渡るために独特の抑揚をつけて叫んでいた。いかに議場が紛糾しているといえども、議員同士の討論自体にはやはり厳然とした価値があり、議長といえども早々「討論を止め議事進行」とはいかない、という万機公論精神の遵守の意味がある。衆議院では、議員に対する討論停止の議長下令を忌避する傾向にあったので、その代わりに議員側から進行を促そうというものである。その後時代は進み、半ば慣習的に、また大声を最初に出して議場を引き締める人が必要という意見が増えて、議事進行係が定着した。
・万機公論に決すべし
「五箇条の御誓文」第一条にある言葉。天下の政治は輿論に従って決定すべきである。
★明治時代に世論という言葉は存在しないし、世論と輿論とは意味が違う。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。
(由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ
(福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし
この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している。(福岡孝弟『五箇条御誓文と政体書の由来に就いて』大正8年(1919年)に依る。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る。)
前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた[5]。しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。
後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利と親交のあった坂本龍馬の船中八策(慶応三年六月)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採られたものとみられる。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。
万機公論とは
言論活動の一つの方法として、各種専門家(研究者、評論家、著述家、マスコミ、インターネット等の情報)から、論題に使える情報を選び〔論理的に〕整理していく方式である。
(注:論理的に大括弧を付けたのは、完璧な論理というわけではなく、得られた情報と常識的な論理でという意味である)
方法
1)まず、論点としたいものが発生したら、その時点で得られた情報で論を組み立てる。その際、情報の出典を明らかにしておく。
(注:よって、未確認情報があってもとりあえず論を立てる。それに、わかるようにしてあれば仮定も含めてよい。)
2)そして、後から情報が得られるに従い、論を再構築していこうという方法である。
(注:であるから、他に情報が存在していてそれを知らなくても、とりあえず論を構成しておいてよいということになる。素人がすべての情報を蒐集し、整理する時間はないのであるから)
3)個々の論の結論は、その各論を明示して、他の論に用いても良い。
4)よって、ある論は、その論に直接関係のある資料と、『万機公論方式』の各論の結論を組み合わせて、立論しておく。
5)これらの論理系において、新しい情報が入手されたら、論を再構築していく。
6)この方式で得られた結論は、公論xxをもとにカクカクの結論になるとの論を組み立てることができるものとする。
(注:再構築の手間が大変であり、また、項目も多枝にわたるので、各方面の協力が必要になるが、とりあえず、始める)