天皇陛下が79歳の誕生日に際して記者会見に応じた際のやりとりは以下の通り。
(問1)東日本大震災から約1年9か月がたちましたが、復興への道のりは険しく、ふるさとに帰れない被災者が今も多いのが実情です。一方で、国民を勇気づけるような明るいニュースもありました。皇室では、皇太子ご夫妻の長女・愛子さまがご両親の付き添いなしで小学校に通われるようになり、秋篠宮家ではお子さま方が留学や進学準備を迎えるなど節目の年となりました。この1年を振り返り、社会情勢やご公務、ご家族との交流などで印象に残った出来事をお聞かせください。
(天皇陛下)
今年は2月に心臓の手術を受け、多くの人々に心配をかけました。誕生日にあたり、当時、記帳に訪れてくれた人々をはじめ、今も私の健康を気遣ってくれている多くの人々に対し、感謝の気持ちを伝えたく思います。
東日本大震災から1年9カ月がたち、被災地に再び厳しい冬がめぐってきています。放射能汚染により、かつて住んでいた所に戻れない人々、雪の積もる仮設住宅で2度目の冬を過ごさなければならない人々など、被災者のことが深く案じられます。震災時の死者・行方不明者数は1万8千人余と報じられましたが、その後、2千人以上の震災関連の死者が生じたため、犠牲者は2万人を超えました。地震や津波を生き抜いた人々が、厳しい生活環境下、医療などが十分に行き届かない状況の中で亡くなったことは、まことにいたわしいことと感じています。また被災地の復興には、放射能汚染の除去や、人体に有害な影響を与える石綿が含まれるがれきの撤去など、危険と向き合った作業が行われなければならず、作業に携わる人々の健康が心配です。放射能汚染の除去の様子は福島県の川内村で見ましたが、屋根に上がって汚染を水流で除去するなど、十分に気をつけないと事故が起こりうる作業のように思いました。安全に作業が進められるよう、切に願っています。
社会の問題として心配されることは、高齢化が進んでいることであります。特に都市から離れた地方では大変深刻な問題になっていると思います。平成23年度の冬季の雪による死者は130人以上に達し、多くが除雪作業中の高齢者でした。私自身、近年山道を歩くとき、転びやすくなっていることを感じているので、高齢者が雪国で安全に住めるような状況が作られていくことを切に願っています。若いときには、高齢のため転びやすくなることなど考えてもみませんでした。
1年を振り返ると、さまざまなことがあった年でした。明るいニュースとしてはロンドン・オリンピック、ロンドン・パラリンピックでの日本選手の活躍が挙げられます。ロンドン・オリンピックで日本が獲得したメダル数はこれまでのオリンピックの中で最多でした。またロンドン・パラリンピックでは、車いすテニスの国枝(慎吾)選手がシングルスで北京大会に続いて2連覇を達成するなど、日本の選手はさまざまな分野で活躍しました。金メダルを取ったゴールボールの試合も映像で楽しく見ました。研ぎ澄まされた感覚でボールを防ぐ姿には深い感動を覚えました。脊髄(せきずい)損傷者の治療として英国で始められた身体障害者スポーツが、今日ではすっかりスポーツとして認められるようになったことに感慨を覚えます。
山中伸弥教授のノーベル医学生理学賞受賞も、まことにうれしいニュースでした。特に再生医療に結びつく大きな成果は、今後多くの人々に幸せをもたらすことになることと期待しています。
今年は英国女王陛下の即位60周年にあたり、ご招待を受け、私も皇后とともにその行事に出席いたしました。この行事には各国の君主が招待されましたが、戴冠(たいかん)式とこのたびの60周年のお祝いに重ねて出席できたのはベルギーの国王陛下と私の2人で、戴冠式のときは18歳と19歳でした。若くして臨んだ戴冠式でのさまざまな経験が懐かしく思い起こされます。
(問2)陛下は今年2月、心臓の冠動脈バイパス手術を受けられました。現在のご体調はいかがでしょうか。最初に心臓のご病気をお知りになったとき、手術をお受けになると決められたとき、無事に手術を終えられたときの心境と、今後の体調管理で留意されていることがらについてお聞かせください。退院後も胸に水がたまるなど陛下に治療が続いたときも、ずっと支えられた皇后さまをはじめ、ご家族とのエピソードについてもお聞かせください。
(天皇陛下)手術の後はその影響があり、テニスをしても走って球を打つという何でもない動作がうまくいきませんでしたが、最近は以前のように球を打てるようになったような気がしています。リハビリテーションというものが実に重要なものだと感じています。農業や漁業で体を動かして仕事をしている高齢者が被災生活で体を動かさなくなったときに体を壊す、という話が実感されました。 心臓の病気は検査で知りました。手術を受けることを決めたのは、心筋梗塞(こうそく)の危険を指摘されたからでした。時期については東日本大震災1周年追悼式に出席したいという希望をお話しし、それに間に合うように手術を行っていただきました。手術が成功したことを聞いたときは本当にうれしく感じました。執刀された天野(篤)順天堂大学教授をはじめ、この手術に携わった関係者に深く感謝しています。 体調管理としては筋力を衰えないようにすることが大事だと考え、これまで通り早朝の散歩を続けるほか、できるだけ体を使う運動に努めています。入院中、皇后は毎日病院に見舞いに来てくれ、本当に心強く、慰めになりました。手術後のリハビリテーションの一環として病室の近くの廊下を一緒に歩くときにはいろいろな音楽をかけてくれ、自分も楽しそうに歩いていました。家族のみながそれぞれに心を遣(つか)ってくれていることをうれしく思っています。
(問3)陛下は心臓手術後も以前と変わらないペースで公務に取り組まれていますが、来年80歳となられるのを機に一層のご負担軽減が必要との指摘があるほか、一定の年齢に達すれば、陛下には国事行為に専念、あるいは国事行為と最小限の公的行為だけなさっていただき、それ以外は皇族方が分担するという考え方を取り入れるべきとの意見も出ています。現行制度のままでは陛下のご活動をお支えする皇族方が減ってしまう現状の下で、今後のご公務に関する皇族方との役割分担についてどのようにお考えでしょうか。
(天皇陛下)天皇の務めには、日本国憲法によって定められた国事行為のほかに、天皇の象徴という立場から見て公的にかかわることがふさわしいと考えられる象徴的な行為という務めがあると考えられます。毎年出席している全国植樹祭や日本学士院授賞式などがそれにあたります。いずれも昭和天皇は80歳を超しても続けていらっしゃいました。負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています。
(関連質問)陛下は皇后さまとともに11月に沖縄県を訪問されました。皇太子ご夫妻の時代から数えると9回目となります。今回8年ぶりに沖縄県に行かれたご感想、また、特に印象に残ったことをお聞かせいただけますでしょうか。
(天皇陛下)8年ぶりに沖縄県を訪問したわけですけれども、今度行きましたところは、今までに行ったことのないところが含まれています。沖縄科学技術大学院大学ですね、恩納村(おんなそん)には行きましたけれどもそこは行きませんでしたし、万座毛(まんざもう)も初めてでした。それから、久米島がやはり初めてのところです。(国立沖縄)戦没者墓苑は、これは毎回、お参りすることにしています。そのようなわけで、毎回お参りしているところと、新しいところとあって、沖縄に対する理解がさらに深まったというように思っています。
万座毛というところは歴史的にも、琉歌で歌われたりしていまして、そこを訪問できたことは印象に残ることでした。ことに恩納岳もよく見えましたね。久米島の(沖縄県海洋)深層水研究所も、久米島としては水産上、重要なところではないかと思っています。多くの沖縄の人々に迎えられたことも心に残ることでした。
沖縄はいろいろな問題で苦労が多いことと察しています。その苦労があるだけに、日本全体の人が皆で沖縄の人々の苦労している面を考えていくということが大事ではないかと思っています。地上戦であれだけ大勢の人々が亡くなったことは、ほかの地域ではないわけです。そのことなども、だんだん時がたつと忘れられていくということが心配されます。やはり、これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、日本人全員で分かち合うということが大切ではないかと思っています。
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基地の騒音訴訟の代表人がよく言う言葉に「来ただけで何がわかるか。住んでみればわかる」といったものがある。この言葉は本土の人に向けたものである。ところが私のように、住んでいるが、騒音に関して、彼らほどの激昂はないとなった場合、その代表人は何と言い返すのだろう。普通なら何も言い返せず、沈黙するだろう。というのも前記の発言は、市民は皆自分と同じだという前提がなければ言えないからである。その前提が否定されるわけだから、沈黙するしかわるまい。
では、この言葉を「宜野湾市に住めばわかりますよ」と本土の人が言った場合はどうだろう。仮にその人が宜野湾市に住んだことのある人なら、代表人への返答と同じでいいだろう。そうでない場合、その本土の人は代表人に代表される者を権威として、本土の人に反省を求めていることになるだろう。人はそれぞれ人格が異なるから、誰かが誰かに、自己の基準で反省を求めることはできない。というのも、反省とはその人の基準で自らを省みることだからである。もっとも小集団内ならば、基準が同じであり、相互に反省を求め求められる関係にはなりえるだろう。
では『地上戦であれだけ大勢の人々が亡くなったことは、ほかの地域ではないわけです。そのことなども、だんだん時がたつと忘れられていくということが心配されます。やはり、これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、日本人全員で分かち合うということが大切ではないかと思っています。』とする今上陛下の思いを、沖縄県民であり、宜野湾市民である私はどう受取るべきだろう。
これを、『地上戦であれだけ大勢の人々が亡くなった。ほかの地域ではなかった。そのことなども、だんだん時がたつと忘れられていく。風化を食い止めなければならない。これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、日本人全員で分かち合うということが大切だ』とこれを沖縄県民が沖縄県民に向かって言ったとしよう。
まず私は戦後生まれだから、地上戦を知らない。知らないから、これは忘れる・忘れないの対象にならない。だから、戦争で沖縄の人々の被った災難を分かち合うとは、どういうことかも知らない。戦没者への慰霊は今まで一度も行ったことはない。仮にお参りすることになったとしても、それは先祖への墓参りのときと同じ心的状態、つまり、実際に霊が存在するか否かを問わず、そこに先祖が居ますが如くお参りするだろう。そして、霊が存在すると断定すると、両親の現状が不憫に感じた場合、早くあの世へ送った方が親孝行ではないのかという安楽死の実行の有無に悩むだろうし、霊が存在しないと断定したら、あの世ならないのだから、人は物質でしかなく、それを祀るのはおかしく、墓参り自分のあり方に悩むだろう。その悩みを持たないために、霊の存在の有無は考えず、そうした考えがこの地上にどのような影響があるかのみで事済ませている。
このように祖先と戦没者への心的状態は同じである。だから、ここから社会的行動は生じようがない。そのため、沖縄県民が沖縄県民に対し、上記のような発言はないというのが前提になっている。しかし、実際には、そうした発言は行われたりする。すべて反省を求めることを前提としているが、これは戦没者への心的態度が私と同じではないということだろう。戦没者を持ち出して、沖縄県民が沖縄県民に反省を求めるためには、まず、戦没者を何らかの権威として崇めなければならい。次に、その権威化された戦没者を、自己の権威に置き換え、その権威を以て反省を求めていくことになる。
こうした権威者が沖縄では蔓延している。それに対して本土の人が『これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、日本人全員で分かち合うということが大切ではないかと思っています』などといった心情を寄せることは如何なものだろうと思う。戦没者によって自己権威化された者たちを図に乗せることにしかならないのでないだろうか。