検証 震災ニッポン 3
被災地の海に起きた“変化”
妻と妹が行方不明の千葉さんは、陸で見つからないのなら海かと思っていると話す。海で東日本大震災の行方不明者を探すボランティアもある。彼らは震災一ヶ月後、岩手県山田町の海に入った。この海では数人の行方不明者を発見。更に震災3ヵ月後には宮城県石巻市雄勝町の海に、5ヵ月後は宮城県石巻市北上町の海に入る。しかしこの頃から行方不明者が発見し辛くなっていた。
その一方で、海にウニが繁殖したり、ワカメの質がよくなったり、大きなカキがとれたりという変化が。海の中で一体なにが起きているのか。
被災地の海…驚きの回復
被災地の海で海産物が成長。一体何故なのか。これは、津波が海底を一掃したことによって、海全体に酸素が行き渡るようになり、海の環境が劇的に改善されたことによるという。そして宮城県石巻市で行われた海の捜索に同行。彼らは魚群探知機を使用し、瓦礫の山の位置を特定しているという。
不明者は…海中捜索に密着
宮城県石巻市で行われた行方不明者の捜索。魚群探知機でがれきの位置を特定した。しかし海は悪天候による視界不良で、唯一バッグが見つかった。これが手がかりになることも。多くの被災者が今日も家族の帰りを待っている。
東日本大震災の行方不明者が、半年過ぎたあたりからなかなか見つからなくなっている現状がある。また、瓦礫の数も748ヵ所ととても処理しきれない数である。更にアメリカの西海岸にも日本の津波で流されてきたものが漂着している。スタジオでも、地震の海にショックを受けた旨を高木が語る。
司会の小倉智昭が「3274」という数字を見せて、「何だと思いますか」と聞いた。おととい5日(2012年3月)時点の東日本大震災の行方不明者数だ。きのうはこれが「3272」と2人減った。捜索・身元確認は今も続いているのだ。
この1年、がれきが沈む海で行方不明者を捜し続けているダイバー・グループがいる。潜水捜索救難協会(太田樹男代表)のボランティアで、その記録をたどると意外なことがわかってきた。
震災直後の不明者は1万6441人(2011年3月31日)だった。グループが捜索を開始したのは岩手・山田町からで、震災1か月後だった。海底には家が丸ごと沈んでいた。障子や壁紙までそのまま。おびただしい生活用品、漁網などの漁具…。こうしたがれきにのまれていた数人を発見した。
6月、石巻市雄勝町の海へ移る。不明者は8492人(5月31日)になっていた。8月、石巻市北上町へ。不明者は4977人(7月31日)。大きながれきの撤去が進んで捜索のポイントが絞れなくなる。この頃から海の様子が変わってきた。
海底の洗濯機に黒いウニが張り付いていた。見回すとあたり一面にウニが繁殖している。養殖のワカメも伸びがよく「質がよくてきれい」と漁師がいう。気仙沼ではカキの養殖でも驚く結果が出ていた。リポートの森本さやかが「大きい」と声をあげる。殻からはみ出しそうな大粒だ。「この大きさは(震災前なら)2年から3年もの。半年でこんなに成長するとはわれわれもびっくり」と漁師もいう。
海の中で何が起きているのか。大学の合同研究が行われた。わかったのは、津波が海を豊かにしたということだった。4月の時点で海は濁っていた。泥とプランクトンの大量発生だった。ところが、9月の映像では透明度が上がって、魚も多く、海底の生物、海草類も勢いがよくなる。さらに11月になると、無数の小魚が群れ、海草も大きく生い茂っていた。
単なる回復ではなく、震災以前より海は豊かになっていた。気仙沼港など4か所で、いずれも溶存酸素飽和度が100%前後。海の底まで酸素がゆきわたっていることがわかった。首都大学東京の横山勝英准教授は「震災で水や泥が入れ替わってリフレッシュ状態」という。
小倉
取材にいったときも、漁師さんは早く海へ出たい、『津波の後は豊漁になるんだよね』といっていた。
森本
昔からそういわれていたようで、取材した漁師さんも『おじいさんから聞いてホントかなと思っていたけど、潜ってみたらその通りだった』と話していました。ただ、陸の加工場とかがまだなので、水揚げできないともいってました。
石巻から仙台にいたる海域でがれきは748か所も確認されている。家や車、電柱、漁具などが絡み合っていて、引き上げも難しい。一方でアメリカの西海岸に、津波によると思われる漁具、空き缶などの漂着物が流れ着き始めているという。
小倉
アメリカには2014年といわれていたのに。
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