世界文化遺産への登録で脚光を浴びる富士山。7月からの夏山シーズンには大幅な登山者増が見込まれているが、東京にも「小さな富士山」が点在していることをご存じだろうか。江戸時代、「気軽に登頂できる『模造』の山」として、造られたもので、今でも23区内に50以上が残っているとされる。本家の山開きを前に、「身近な富士」に足を運んでみた。
■山頂に金明水
「ざーんげざんげ。六根清浄」――。聞き慣れない厳かな言葉が飛び交うなか、6月3日、渋谷区の鳩森八幡神社境内にある富士塚がいち早く山開きした。「千駄ケ谷富士」は、都内に現存するもので最も古いといわれる1789年の築造。手前に富士五湖を模したという池を配し、中腹にはクマザサが生い茂る。
「庭園風で落ち着いた造り。お薦めの富士塚の1つ」。案内をお願いした富士塚愛好家の芸術家、有坂蓉子さんが熱っぽく語る。
富士塚は、江戸時代に広まった山岳信仰「富士講」のシンボル。「なかなか行けないなら作ってしまえ」という江戸庶民のしゃれ心だ。当時は「江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講」といわれるほど、町中の至る所にあったが、講の衰退や宅地化などとともにその数も激減した。
有坂さんによると、富士塚の基本構造は、麓の「胎内」という洞窟、5合目にある「小御嶽神社」、7合5勺の「烏帽子岩」、山頂の「奥宮」の4つ。このほかにも、各富士塚ごとに、てんぐの石像があったり、大沢崩れが再現されていたり。様々な個性があり愛好家心をくすぐるそうだ。
標高5メートルほどという山頂までは、富士の溶岩で造られた階段を登って約2分。登り切ると、「本家」頂に湧く泉「金明水」が再現され、水がたたえられていた。「歴史を知れば、塚からいろいろなことが読み解ける」と有坂さん。金明水は、この塚を造った講が富士登山の際、山頂から「薬」といわれた水を持ち帰り、行けなかった講員に配っていた証拠だ。
ちなみに、山開きの神事で聞こえてきた「六根清浄」とのうたい文句。同神社の平野俊二宮司に聞いてみたところ、「六根とは五臓六腑(ろっぷ)のこと。聖地である富士山に登る時には心も体も清めていこうという気持ちの現れです」と解説してくれた。講の人々は、この言葉を唱えながら登山するのが習わしだったいう。
■歌川広重も描く
次に訪れたのは、日本橋からも近い鉄砲洲稲荷神社(中央区)。境内の隅に、壁に寄り添う形で塚がたたずんでいた。千駄ケ谷の緑あふれたものとは異なり、ゴツゴツした溶岩が積み上げられただけの野趣あふれた造形に驚く。
麓の鳥居には「危険なので登らないで下さい」との看板が掛けられていた。「ケガをする方が多いので、今は7月1日の山開きの日だけ登山を許可しています」(中川文隆宮司)
お願いして、特別に登らせてもらった。高さは10メートル弱。山頂に近づくにつれ、両手を使わないと登れないほど道は険しくなり、尖った岩肌が恐怖心を誘う。登山靴が必要なほどの難所だ。
もっとも、現在の姿は、江戸期の3分の1ほどの大きさ。神社には「江戸に入港する船は塚を目標にしていた」との言い伝えがある。浮世絵師、歌川広重の「名所江戸百景」にも、その威容が本家・富士に重ね合わす形で描かれており、当時の姿をしのばせる。
眺めが抜群だったのが、品川神社(品川区)。標高は訪れた富士塚の中で最高の約15メートルで、頂上まで登ると、目の前を走る京急線の高架を見下す格好となり、レインボーブリッジなどが望めた。これまで紹介した他の2山と違って山頂が広く、ひと休みすることも可能だ。
■高い保全意識
登山の目安となる「合目」の道標もある。富士登山の場合、5合目から登る人が多いと思うが、こちらの富士も、2つある登山道の入り口の1つは5合目からだ。
実はこの「品川富士」、東日本大震災で一部が崩れた。「一昔前なら、こうしたことを機に壊されることも多かった」(有坂さん)というが、品川神社では「古くから受け継いできたもの。直さないわけにはいかない」(小泉勝俊宮司)として修復した。
一方、「鉄砲洲富士」では、明治以降の相次いだ移設により、円すい状の形を失っているため、社務所の建て替えに併せて再び移設し、「少しでも建立当時の美しい形に戻す」(同神社)計画が進行中。鳩森八幡神社も「千駄ケ谷富士」を「かけがえのない財産」と見なしていて、各神社ともに保全意識が高い。
一時は忘れかけられていた富士塚。近年の町歩きブームなどもあって、若者の間でも訪れる人が増えているという。富士山の世界文化遺産登録を機に、再び注目される日も近い。