世界は今週、米中首脳会談で交わされるボディーランゲージに注目することになる。もしバラク・オバマ大統領と習近平国家主席が友好的な関係を築くことができれば、中国と米国は対決する宿命にあるという運命論的な見方に異を唱えることになるだろう。
この悲観的な運命論を補強するのが、米国人が不愉快に感じる経済の変遷だ。オバマ大統領の任期の最終年に当たる2016年までに、中国の経済規模は米国のそれを上回る公算が大きいのだ。
この予測は国際通貨基金(IMF)と、先進国クラブと称される経済協力開発機構(OECD)がそれぞれに出しているものだが、非常にデリケートな内容であるため、米国でそのまま提示すると、そんなばかなという否定の声が数多くあがる。
■終わりが近づく「超大国」の地位
確かに、これらの予想は購買力平価ベースの為替レートによって物価水準を調整した国内総生産(GDP)によるものであるため、中国が米国を追い抜くとされる日がその分早くなっている。しかし、実際の為替レートを用いても、中国が世界一の経済大国になるかもしれない日は多少遅くなるだけで、エコノミスト誌によれば2018年に逆転するという(2年しか変わらないのでは、大した慰めにはならないだろう)。
中国が世界最大の経済規模を誇る国になっても、平均的な米国人が平均的な中国人よりもはるかに裕福なのは事実だ。軍隊は米国の方が先進的で、中国はまだそのレベルに近づけていないことも間違いない。空気も、ワシントンの方が北京よりきれいだ。ついでに言わせてもらえれば、ハンバーガーもワシントンの方がおいしい。
しかし、だからと言って、中国の台頭は、米国が唯一の超大国として君臨する時代が終わりつつあることを意味しているという事実をごまかせない。この変化に両国はいかに対処していくのか。これこそが、この時代で最も重要な地政学上の問題だ。
どちらの国も、もし事態が本当に悪化してしまえば戦争にすら発展しかねないことを重々承知している。ハーバード大学のグレアム・アリソン教授はこれを「ツキジデスのわな」と呼んでいる。新興勢力は既存の支配勢力と衝突しがちだという、古代ギリシャの歴史家ツキジデスが最初に気づいた傾向のことだ。
歴史から得られたこの知識は今年に入ってから、これまで以上にリアルで先行きの怪しいものに感じられるようになった。係争中の島々を巡って中国と日本の緊張が高まり、日本に対する米国の安全保障が発動される可能性が取り沙汰されるようになったからだ。
領有権を巡る問題で中国がこれまで以上に強硬な態度を取っていることから、中国政府の内部で軍が影響力を増しているとの印象が強まっている。また中国からのサイバー攻撃は、中国は最終的には米国の弱体化を狙っているのだという米国政府の懸念を強めている。
その一方で中国政府は、米国の意図についての不安を強めている。米国がアジアの同盟国のネットワークを強化する方向に動いているためだ。この方針には「アジアへのピボット(旋回)」という覚えやすいタイトルまでついている。
もしこのピボットが単に、米国はアジア太平洋地域の中心的な勢力であり続けるつもりだという主張であるならば、これに異を唱えることは難しいだろう。問題は、中国政府がこの言葉を「中国封じ込め」の体のいい言い換えだと解釈しているところにある。
このピボットで最も騒がれているのは軍事面での施策だ。特に目立つのは、太平洋の米海軍を増強し、オーストラリアとフィリピンにローテーション配備する兵士を増員するという決断だ。非軍事の施策でさえ、反中国に見えることがある。例えば米国は環太平洋経済連携協定(TPP)を推進しているが、今のところ、中国はこれに加わっていない。
■根底にビジョンの違い
このように米国と中国が互いに疑念を募らせる状況が単なる誤解によるものであったら、それほど心配する必要はないのだろう。しかし、両者の対立関係の底流には、本当の意味でのビジョンの違いが隠れている。
米国は、中国が現在の国際体制において「責任あるステークホルダー(利害関係者)」になるべきだという方針を掲げる。言い換えれば、既にあるルールに従うのであれば、中国の台頭には何の問題もない、ということだ。
ところが中国はこれに対し、そういうルールは米国が覇権を握っていた時代に作られたものだと応じている。中国の台頭を認めるように体制の方が変わらなければならない、というのが中国政府の見方なのだ。
米国としては、IMFなどの国際機関で中国により大きな発言権を与えることに異存はない。本当に難しいのは、近隣地域で「勢力圏」を築こうとする中国の明白な願望の扱いだ。
中国にしてみれば、これ以上自然なことはない。結局、米国は、自国が西半球で常に支配的な国であり続けるのは当然だと考えている。では、なぜ台頭する中国が東アジアで同じ役割を求めてはいけないのか。だが、東アジアが世界経済の中核になろうとしている今、米国はアジアにおけるこの支配的な役割を中国に譲る気はない。
米中両国の軍の間に今よりずっと効果的な対話を確立し、緊迫する東アジアの海域で潜在的な衝突を避けようとする米国の願望の背景にあるのは、この葛藤だ。米国人にしてみると、これは非常に分別のある考えに思える。だが、中国はこうした危機管理手順の強化に抵抗してきた。そのような取り組みは、米国の海軍が中国沿岸部に近い海域を巡回する権利を暗に認める行為に見える恐れがあるからだ。
中国政府に言わせれば、米国が手を引きさえすれば、問題は解決する。だが、米国にしてみると、仮に米国が手を引けば、ただでさえ太平洋地域の支配的な軍事大国であり続ける力が米国にあるのかどうか疑問に思っているアジアの同盟ネットワークに対し、弱さを示す悲惨なシグナルを送ってしまうことになる。
米国は先日、中国の海軍が米国の領海(恐らくはグアム沖)に時折姿を現すようになったことを明らかにした。
悲観的な向きは、このような対立が高まるのは不可避だと言うだろう。だが、もしオバマ大統領と習主席が今週、サイバースペースや海軍の巡回に関して新たな合意をまとめて懐疑的な人々を驚かせることができれば、米中対立が果てしなく高まっていくという自己暗示的なその思い込みに待ったをかけられるのだ。
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人と人の律し方や、その精神構造に対応する社会構造で考えるとき、日本がアメリカや中国と理解し合える関係になることはなく、アメリカと中国は理解し合える関係にある。それを見えにくくしているのが、中国における政治=宗教という思想に基づく政治体制だろう。アメリカは政治≠宗教であり、彼らが中国を非難する点は、常にそのことである。日本を抜きにすると、中国とアメリカは対決する宿命にあるという運命論的な見方がある。この悲観的な運命論を補強するのがアメリカ人が不愉快に感じる経済の変遷だという。国同士の対決の最悪な形を戦争だとすれば、戦争は外交の最終的手段だから、経済の対決が戦争へとつながることはないだろう。
※宗教への殉教は政治への殉教となる中国人がチベットの僧侶を投身自殺を見れば、それは政治上の殉教でしかない。文化(宗教上)の殉教とする外部批判は成立つだろう。
※宗教への殉教は政治への殉教となる中国人が日本の靖国神社参拝を見れば、それは政治上の参拝でしかない。死者を祀るため(宗教上)とする外部批判は成立つだろう。
※最終的に日本という国は、アメリカか中国の衛星国にしかなり得ない国である。この大前提がないものだから防衛問題を軍事力と経済力のみで語る流行が1930年頃から廃れないのだろう。