成長の物語 数字で見るJリーグの「20年」
サッカージャーナリスト 大住良之
1993年5月15日に東京・国立競技場で行われた横浜マリノス―ヴェルディ川崎戦で開幕したJリーグがスタートして20年を迎えた。
11日のJ1第11節では、浦和レッズ―鹿島アントラーズ戦が「20周年メモリアル試合」に指定され、簡単なセレモニーが行われた。リーグ戦ホームゲームの通算入場者数が唯一1000万人を超えている浦和と、J1の最多優勝記録(7回)をもつ鹿島の対戦は両者の意地が激突し、ハイレベルで緊迫感があり、20年間のJリーグの成長を物語るものとなった。
■クラブ数、10から40に
今回はいろいろな数字から、Jリーグと日本のサッカーがこの20年間でどう変わったのか見てみよう。
スタートしたときには、Jリーグは10クラブだった。
世界のサッカーについて多少の知識がある人なら「少ない」と思うかもしれない。しかし当時の「日本の常識」では適当な数と考えられていた。プロのスポーツはすべてプロ野球が基準になっていたからだ。セ・パ両リーグで12球団のプロ野球は1日6試合。それがスポーツニュースや新聞で取り上げられる適度な試合数とされていたのだ。
■地域に根ざす理念浸透
だから翌年ベルマーレ平塚とジュビロ磐田の加盟が認められ、Jリーグが「拡大」を始めると驚きをもって迎えられた。拡大のスピードは落ちず、98年には18クラブとなり、さらに加盟を希望するクラブが目白押しだったため、99年には「J2」がつくられた。
経営が成り立つのかと最初は疑問視されたJ2だったが、「身の丈経営」も進み2008年以降に急成長、12年にはチーム数が「定数」の22に達した。J1が18クラブ、J2が22クラブ、計40クラブは、スタート時の4倍。
長引く不況でスポーツからの企業の撤退が相次ぎ、いくつもの競技で企業チームが消滅していった。Jリーグがその荒波から逃れることができたのは、「地域に根ざしたクラブづくり」という理念が広く受け入れられたおかげだ。
クラブ数の拡大はそのまま「ホームタウンの増加」、すなわち、日常的にプロのサッカーを楽しむことのできる地域社会の増加に結びついている。
■8府県から30都道府県へ
スタート時のJリーグには、大きな欠陥があった。「ホーム」として優先的に使えるスタジアムの保持(スタジアムを所有する自治体との合意)をリーグ加盟の必須条件としたため、首都・東京のクラブがなかったのだ。
スタート時に10クラブのホームタウンがあった都道府県は、わずか8府県。神奈川県に3つのクラブ(ヴェルディ川崎、横浜マリノス、横浜フリューゲルス)が置かれるなど、非常に偏りがあった。47都道府県のわずか17.0%。Jリーグは日本のほんの一部のものでしかなかった。
しかし13年現在、J1とJ2を合わせた40クラブは、30都道府県に広がっている。
■「1億人のJリーグ」に
都道府県カバー率は、17.0%から63.8%になったが、違いはJリーグがカバーする都道府県の人口を見ればさらに明らかだ。93年の8府県の総人口は、総務省統計局の1990年の人口をもとに計算すると4473万人。当時の日本の総人口(1億2361万人)の36.2%だったが、ことしの40クラブが所在する30都道府県の総人口は1億629万人。総人口1億2734万人の83.5%にもなる。
Jリーグは10年に総観客数が1億人を超えたが、いまや1億人が自分たちが住む都道府県にクラブを持つ、文字通り「1億人のJリーグ」となっているのだ。
Jリーグ(J1)の1試合平均入場者数は大きな浮沈がある。
■入場者数が示す浮沈
「合格ラインは1試合平均1万人」。91年、リーグの本格的スタートを2年後に控えて、川淵三郎チェアマンはそんな発言をした。
当時はスポーツの入場者数は主催者発表の概数というのが常識だった。「1万人ということは、実数で5000人という程度かな」と、その言葉を聞いて思ったが、後に川淵チェアマンに確認すると、「まあ、そういうところ」だったという。
Jリーグに先立つ日本サッカーリーグの27シーズンの平均入場者数は3972人だが、それは「概数」の積み重ねで、実際にはその半分か、せいぜい3分の2といった程度だっただろう。だから「概数1万人、実数5000人」というのも、悪くない数字だった。
しかしJリーグは92年のナビスコ杯から掛け値なしの実数を発表する。その数字はリーグ1年目の93年度には、驚くことに1万7976人を記録した。
■ワールドカップ初出場後も苦しく
この年に行われた全180試合で入場券が「売り切れ」で、スタジアムが大きければ2万人でも3万人でも入ったことだろう。そして翌94年度には1万9598人を記録する(これが現在までの最多記録)。
しかしその後急降下が始まる。「バブル人気」がはじけ、Jリーグは現実と向き合わなければならなくなったのだ。急降下は止まらず、97年度には1試合平均1万131人と、1万人ぎりぎりとなる。
ワールドカップ初出場を達成した98年度にはやや持ち直すが、その後も苦しい時代は続いた。
しかし01年度、一挙に平均5000人を超す増加を見る。02年ワールドカップ会場を中心に巨大スタジアムが次々と完成し、使用が始まったのがこの年だった。近づくワールドカップの足音に触発されたファンが再びスタジアムに足を向けるようになった。
■01年以降は「安定期」に
しかし新スタジアムだけでは、「Jリーグの奇跡的復活」と言っていいようなこの年を説明しきることはできない。
90年代の後半に入場者数が落ち込むなか、各クラブは「観客を増やすには、ホームタウンとしっかり向き合い、ホームタウンの人びとに喜んでもらえるクラブ運営をしなければならない」と判断、地道なホームタウン活動を継続していた。その成果が、新スタジアムの誕生やワールドカップによるサッカー人気と結びついたのだ。
入場者数は01年度以降も少しずつ増え、1万8000〜1万9000人台を保つようになる。11年度には東日本大震災の影響で2500人ほどの落ち込みを見せたが、01年度以降は「Jリーグの安定期」となっていることがわかる。
では、そのJリーグは世界のなかでどのようなポジションにあるのだろうか。
■夢でない「世界トップ5」
英国の月刊誌「World Soccer」はその5月号でさまざまな観点から世界のサッカーリーグを比較し、ポイントにして順位をつけた。Jリーグは「総合11位」(アジアで1位)となったが、ヨーロッパ寄りのやや主観的な基準も見られた。
最新のデータである12年(ヨーロッパは11〜12年シーズン)1試合平均の入場者数を比較すると、Jリーグ(J1)の1万7566人は世界で第9位。ここ数年、スタジアムの充実で急速に観客数を伸ばしている米国のMLSに抜かれたが、それでもヨーロッパの主要国に次ぐ地位にある。このほか、メキシコ、中国、アルゼンチンなどがJリーグより高いというデータもあるが、いずれもリーグが発表した公式の数字ではないため、このグラフからは除外した。
「9位」とはいえ、ドイツのブンデスリーガ(4万5179人)、イングランドのプレミアリーグ(3万4601人)、スペインのリーガ(3万275人)、イタリア(2万3459人)の「ビッグ4」の下は大きな差がないことがわかる。最近のJリーグの観客数上位は浦和レッズ、横浜F・マリノス、アルビレックス新潟、FC東京などだが、14年度中にガンバ大阪の新スタジアム(4万人収容)が完成すれば、上位に入ってくるのは間違いない。「世界のトップ5」は決して夢ではないのだ。
こうして成長してきたJリーグ。Jリーグにとっては、必ずしも手放しで喜べることではないが、世界での評価の高まりは日本人選手たちのヨーロッパのトップリーグでの活躍に最もよく表れているのではないか。
■香川や長友のプレーが契機に
77年から86年にかけて奥寺康彦がドイツのブンデスリーガで活躍したが、93年にJリーグが始まったときには、ヨーロッパのトップリーグでプレーする日本人選手は皆無だった。
Jリーグは経済的に恵まれたリーグとして注目されたが、サッカーのレベルを評価されたわけではなかった。94〜95シーズンにカズ(三浦知良)がヴェルディ川崎からイタリア・セリエAのジェノアに移籍して1年間プレーしたが、負傷などもあり、フルには活躍できなかった。
98年にベルマーレ平塚からイタリアのペルージャに移籍した中田英寿は奥寺以来、十数年ぶりにヨーロッパのトップリーグで実力を認められた日本人選手だった。その数は01年から増えたが、中田に続いて中村俊輔(横浜F・マリノスから移籍)がイタリア、スコットランドなどで活躍したものの、Jリーグが選手発掘の場所と認められるには至らなかった。
しかし10年にヨーロッパに渡った香川真司(セレッソ大阪から移籍)や長友佑都(F東京)の活躍により、ヨーロッパ各国のクラブはJリーグに熱い視線を向けるようになった。
■「世界のマーケット」の一角
アルベルト・ザッケローニ監督が最近招集した日本代表選手だけで16人がヨーロッパのクラブ所属選手。それは、Jリーグによって実力をつけた日本の選手たちが世界に認められ、Jリーグが20年間で完全に「世界のサッカーマーケット」の一角を占めるようになったことを示している。
20年間で大きくその活動を広げ、予期していた以上に国際クラスの選手を輩出するようになったJリーグ。いろいろな数字がそれを実証し、裏付けている。