Quantcast
Channel: Boo-HeeのHoppingブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2229

アジアには、民主選挙より独裁が向いてる? 欠如する民主制に不可欠な3原則

$
0
0

■アジアには、民主選挙より独裁が向いてる? 欠如する民主主義のインフラ
 ムーギー・キム:プライベートエクイティ投資家

 話好きの私はシンガポールでタクシーに乗るといつも 「景気いかが?政府に何か文句言うとしたら何?」と聞くのだが、総じてシンガポールの人々の政府への支持は極めて高い。

「政府はいい仕事をしてきた」「建国以来一度も与党が変わってないし対抗する野党もいないが、この国をうまく運営し、毎年国がよくなっている感がある」――このコメントは一人の運転手さんがふらっと口にしたものだが、ほかの人もたいていは肯定的な答えを返してくる。一生懸命不満を聞き出しても、住宅価格の高騰や医療コストの高騰、勉強の厳しさについていくらか不満は聞くが、総合的には今の政府を強く支持している。

 一方、一般市民による直接投票で選ばれたわけではないが、結果的に中国の政権も香港の行政長官職も、極めて強固で安定している。実は中国では10年間の指導者だけでなく、その次の10年(つまり習近平国家主席の次)もメドがついているので、一年後は誰がリーダーかわからない国に比べるとリーダーシップの見通しは格段に明確だ。

 私の中国人の友人は「日本が低迷している理由は中途半端な民主主義で何も決まらないからだ。アジア人は歴史をたとれば少数エリートをしっかり選抜する仕組みをつくって、後はその人たちに任せる一党独裁のほうがよっぽどよかった。中国の歴代王朝は250年サイクルで交代しており、共産党王朝はまだ50年たっただけで、民主的選挙なんぞ絶対いらん」と力強く語っていた。

==============
 民主制の実施には、その前提として、その国民が有する思想に、投票・契約・外的規範と内的な信教の自由の峻別が必要とする。しかし、その思想を中国人は持たず、これが現在の中国人の最大の悩みになっている。悩みの原因は孟子である。

 孟子は天意=人心論を謳っている。ご存じのように、天意=人心論とは、「天子は天が任命するから天子なわけで、それ以外の者は任命権を持たない。天は何も言わないが、その意向は人心に表れる。だから、天下を得ることは民心を得ることだとなり、民心を失った者はまるで獺や鳶が魚や雀を追うように、民心を得ている方に民を追いやってしまうから、その者は”王であることを欲しない”であっても、王になってしまう。仁義を損なって民心を失い天命が去っても王位にある者は残賊の一人間ですでに王でないのだから、これを放伐(討伐し放逐すること)しても、それは反逆ではなく、一残賊への処罰である」とする内容の思想である。この思想を日本も影響を受け、日本人が語るあるいは実施する民主主義の内容をつぶさに検討すると、大体、この孟子的民主主義になっている。

 この孟子的民主主義に欠けているのが、投票・契約・外的規範と内的な信教の自由の峻別である。孟子の天意=人心論は湯武放伐論となり、この造反有理はそのまま暴力肯定となる。つまり、支配者の暴力対民衆の暴力という形になる。しかし、この点は、さすがに中国人自身も問題を感じていた。そこで、周の武王による殷の紂王への放伐を絶対に認めなかった。そのため、一方では首陽山で餓死した伯夷・叔斉が聖人とされている。孟子は一方で放伐論を肯定しながら、他方で伯夷を聖の清としている。ここには投票という発想がない。放伐という暴力を肯定し、同時に伯夷を聖の清とするといった矛盾に陥らないためには「民心の動向は投票の結果に表れる」と考えるだけでいい。しかし中国人はギリシア人のように、そうとは考えなかった。現在の日本人もその影響下から抜けていない。社会のなかで、民心・民意などの言葉を連呼しつつ、民主主義を掲げながら、その内容は天意=人心論であり、したがって投票を契機とせずに、放伐に勤しんでいる人たちを、よくご存じだと思う。

 孟子の天意=人心論のもつ矛盾を、徳川時代の国学者・山崎闇斎も指摘している。しかし、残念なことに、彼にも投票という発想はなかった。そこで、伯夷絶対⇒正統絶対で孟子の矛盾を解決しようとした。これが天皇絶対の理論的基礎にある。そのため、日本人は一君万民を民主主義としてしまう。

 次に契約だが、民主制における契約とは「天との契約」である。契約の基本は?天との契約?対等(相互)契約?履行契約?保護契約の4つあるが、日本には?が存在しない。したがって、日本に民主制は存在しない。孟子の天は人格的絶対者ではなく、したがって天と契約を結ぶという考え方にはなり得ない。そのため天意=民心だから、王と民との間に契約を立ててこれを絶対化するという憲法的発想も生じなかった。孟子では、天=王=民心のイコールを成立させるのは天子の”徳”であって”契約”ではない。したがって天子が位を失って当然とされるのは”失徳”であって”契約違反”ではない。そのため、日本では代理人(政治家)が”わたしの徳の至らなさが原因です”とするのであって、”わたしに契約違反があったので代理人を辞する”とはならない。
 
 儒教においては”長幼序であり”である。したがって弟が兄を討つのは罪となる、さらに弟であり臣であった場合、その行為は反逆・簒奪となる。しかし、孟子は「失徳の天子を討つのは残賊の一夫を処罰し誅殺することだ」と言っている。民心の動向を天皇以上とし、それの沿って批判されている天皇として後鳥羽・後醍醐がいる。一見、民主的だが、ここにも契約・投票という発想はない。  

 孟子の政治への徳という全人格的な要請は、外的規範(世俗法)は、人間の行為は規定しても、その人の思想・信条を犯してはならないという考え方を生まなかった。徳治の世界からは、内なる人・外なる人という発想は出てこない。そこで統治者階級の士大夫は、外的規範において完全である限り、内心ではキリスト教を信じようと、仏教を信じようと自由であるという発想はなく、逆に、「士は怪力乱神を語らず」で、宗教にはタッチするなとなる。同時にこの思想は「宗教は無知な庶民のものだ」とする宗教蔑視を生んだ。この傾向は日本にもある。そして士の哲学が朱子の「近思録」だった。
 
 朱子の「近思録」の「道体論」は科学的に見える神話であり、天体も社会も自然も人間もすべて一体化している。理は自然界の物理的法則で同時に人間社会の道徳法則なのである。一見民主主義的に見える孟子、一見科学的に見える朱子、このふたつが民主制度導入の最大の障壁となっている。
  

 シンガポール人や中国人の救済の対象は”政治”であり、その政治の世界は「一見民主主義的に見える孟子」の思想のままでいいとしているのだろう。日本人は政治に救済を求めず、政権に救済を求める。その政権の選択が「一見民主主義的に見える孟子」の思想に沿って行われている。

 ちなみに日本では鎌倉時代の僧侶のような頭からすっぽりと袈裟を被り、顔が見えないようにして満座で、挙手を求める合意形成の方法があった。これが今の日本の投票形態、つまり、名を明かさず投票するであっても、ギリシア由来の投票ではない。こうした伝統は中国にはない。
==============

 ご存じのように、日本では小泉政権以降、毎年首相が替わり、政権の安定性の脆弱さは国際会議の場で冗談のネタにされている。そして12もの政党が乱立しているのに投票したい選択肢がなく、投票に困っている方も多いのではないだろうか。「自民党が駄目だったから民主党に」「民主党が嫌だから他の党に」と民主主義なのに選択肢がなく、有権者の政治離れが加速している。

 小泉政権下で郵政民営化という争点で大勝した自民党の後継者が、郵政改革反対で離党した人を復党させ、その見直しばかり推し進めたのは何だったのだろう。

 最近の財政再建の議論の揺り戻しもすごい。数年前まで国債発行30兆円枠といって大騒ぎしていたが、今や90兆円を超える史上最大の予算の内、半分が赤字国債で賄われている。そもそも税金を低くできないのも、教育に予算を割けないのも、高齢者の年金や福祉をカットしなければならないのも、自民党政権下で繰り返された数百兆に上る公共事業の賜物だ。

 もし自民党に政権が戻ったら、同じような、というか、さらにひどい公共投資が実施されかねない。実際、200兆という信じられない規模の公共投資が取りざたされている。

 さまざまな経済学者も心配しているが、いくら金融緩和しても資金が銀行の口座にたまるのは、日本企業が史上最高レベルにキャッシュリッチなうえ、マネーの需給が極めて緩いからである。仮にインフレでマイナス金利にして現金を持つことを懲罰することで投資を誘発すれば、それはバブル以外の何物でもない。

 これは本質的には“平成の徳政令”である。銀行を通じ、年金を通じ、郵貯を通じ国債を持たされている国民の資産価値、国が国民に負っている債務の価格を大幅に下落させようとしているのだ。潜在的には名目GDP比負債比率は減るかもしれない。しかし借金を返済して減らすのではなく、インフレで吹き飛ばして減らすのだ。

 当然中央銀行の独立性と政府への信認に大きな傷がつくが、いちばんバカを見るのは政府を信じて国債を買い続けてきた、というより、年金などを通じて買わされてきた国民だ。日銀が本当に引き受けるなら、この政策は、国債の資産家から持たざる者及び国への富の強制的な移転である。

 もしくは自民党の総裁は、口先介入で「わかってない投資家が動いて円安に振れる」という戦略的な期待でやってるのだろうか。投資家自身は馬鹿な政策だと思いつつも、“他の馬鹿な投資家”がそれで動くだろう、という期待の下、円を売ることがある。総裁が考えていることが後者であることを祈るのみだが、この金融政策上も財政政策上も極めて重要な論点が、その副作用も含めて有権者に十分に理解されていないのは残念だ。

 このように政策の方向としては大いに疑問が残る自民党であるが、“少なくとも他の政党より安定はしている”という寂しい理由で投票の唯一の受け皿になりつつある。自民党内でも立派に政策の揺り戻しが激しかったが、他の政党でさらに輪をかけて政権が不安定なのはなぜだろう。

 それは減税をうたって政権を取り、増税を実行した民主党内の消費税をめぐる大分裂にも見て取れる。1つの政党にかけ離れた政策が混在している理由の1つは、選挙で負けそうな人たちが集まって、1つの箱に政策優先順位がまったく異なる人たちが殺到しているからだ。

 結果的に政策では一部共感できても、駄目な政策や駄目な議員と一緒になって、イタダケないバンドル販売になってしまっている。さらに彼らはいったん議員のバッジを確保したら政党の結束などそっちのけで政争に走り、政策論議が進まない。

 維新の会に、たちあがれ日本の人たちが参加したことで、その政策の是非はともかくとして、双方の支持母体が投票の受け皿を失った。これは薩長維新政府に江戸幕府の老中が大挙して押し寄せたようなものである。選挙後の党内西南戦争の勃発が目に見えており、この連携で得をするのは自民党だけである(それが“太陽”の狙いで“たちあがれ”を維新にポイズンピルしたのなら、その意味では大成功になるだろうが)。

 日本ほどの超大国にして、多くの有権者が投票したい政党がなくて困っているのは、民主主義がいかに退行してしまったかを意味する。民主党政権下の最大の失策は、マニフェストは守られないという確信を有権者に与えたことと、政治家としての包容力とリーダーシップの極端な不足だ。それが自身の首を絞め少数政党に転落して自分が困るだけでなく、有権者の政権選択という受け皿をなくして民主主義を大きく後退させてしまった。

 国民に必要な政策を推進する政治家を選ぶにはいったいどうしたらいいのだろうとよく議論されるが、これは昔からよく言われる“鶏と卵の関係”で難しい。有権者に選挙前に有用な判断材料を提供しきれていないマスコミにも問題はあるが、やはりこのような政権やマスコミを許してしまっている(親愛なる読者の皆様以外の)有権者の方々にも一層の努力が求められているのだろう。

 優秀なリーダーが立候補し、安定政権を政策単位で選び、政策をモニタリングして評価するという循環がなければ民主主義はまともに機能せず、冒頭で私の中国の友人が言ったように“選挙のない一党独裁のほうがよっぽどマシ”という事態になってしまう。

 行革を論じる上で決定的な問題は、政治家になろうとする候補者の質が、一般的には非常に高い日本人の高い資質から見たときにあまりにも低すぎる点だ。この原因の一つはやはり政治家になるのが簡単すぎるから、つまるところ“座れる椅子”が多すぎるからだ。

 この“政治家の椅子が多すぎるのが、やはり何といっても問題説”は先ほどのランチタイムに水餃子を食べながら頭をよぎったことだ。本日、さんざん並んだ後にシンガポールのチャイナタウンの四川料理屋でキクラゲのあえものと水餃子、辛い豚肉をゆでたアパタイザーにミンチ肉のスープをたっぷり食べたのだが、値段は2000円未満で味も極めて美味である。安価なのにこんなにおいしいのは、周囲に同じように低価格で質の高い料理を出すお店がひしめいているからであり、これらは厳しい質と価格への競争の産物なのだ。 

 現在、日本の政治家は衆議院や参議院の議員削減が取りざたされているが、意思決定の効率化という観点以上に政治家になる競争を厳しくするためにも、ドラスティックに削減したいところだ。今のようにちょっとタレントになって有名になったり、美人すぎたりするだけで、簡単に議員になれるのが間違っている。

「自分の責任でこの政策一つだけでも見える形で前進させます。それは私だからこそできることです」と言える議員や候補者がいったい何人いるだろう。しかしながら、あの衆院解散宣言の時も野田首相は自民党に議員数の大削減を迫って解散を打ち上げたが、その後争点としては早くも翳んでしまっている。

 そもそも多数の議員を抱える既存政党が大胆に身を切ることができるわけがない。これはまだ大きな議員数を擁しておらず、議員の数を減らしても別に自分の身を切るわけではない新興勢力にのみできることだが、皮肉なことにその政党が大勝してしまうと同じ理由で議員削減は凍結されるだろう。

 現在、有権者も質が低い議員に裏切られるのに慣れてしまい政治家の嘘に不感症になってしまっているが、どの政治家が、どの政策を実現するのに必要なのか理解しモニタリングする一層の努力が必要だ。橋下氏が盛んに批判している「選挙でネット使用が禁じられている点」を含め、政治家は有権者を“馬鹿な有権者”に保つことで国民からの適切な監査を逃れようとしているように思える。結果的に資質の低い議員による、国民の望まないどさくさに紛れた政策が展開されてきたのだ。

 今から30年前に米国の影響力が衰えつつあったとき、大胆な規制緩和と行革で強いアメリカを復活させたレーガン大統領は国民に向けてこう語りかけた。

「政府は車でありドライバーは国民である。どの方向に、どんなルートで、どんなスピードで行くべきかは国民が政府に命令するのであり、決して逆ではない。少数のエリートが、国民の望む政治より優れた政治をするという考えに同意しない。私は大統領になったのではなく、大統領という機関の信託を一時的に受けただけであり、その力は私にではなく私たちの憲法の最も偉大な最初の一言、すなわち”We the people(われわれ人民)”に属する」

 日本の次期政権は国民が求めている政策の道を、適切なスピードとルートで走ってくれるだろうか。政府を監督するのは自分たちなのだという強力な自覚なしに、美しい国にも新しい国にもたどり着けないのだ。























Viewing all articles
Browse latest Browse all 2229

Trending Articles